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第13章 夢5

 その事実に日向は驚きを隠せなかった。 「どうしたんですか? いきなり手を握ったりして」  おどけた調子で陽炎は日向に問いかける。 「その、きみと最後に会ったのは僕が、この町に引っ越してくる前だったはずだから、きみのことをよく覚えていないんだ」 「……それもそのはずです。あなたが私のことをよく覚えていないのも仕方がありません。だって最後に会ったとき、あなたは三歳の子どもでしたから」 「だったら、なんできみが今、僕の部屋にいるの? きみも、こっちに引っ越してきたんだとしても、おかしいよ。お母さんは、まだ目を覚ましてない。鍵は全部、僕が見たけど、ちゃんと施錠してあった。なのに、どうしてこんな朝早くに、ここにいるの……?」  明らかにうろたえている日向に向かって「落ち着いてください。ひとつずつ答えますから」と陽炎はやさしく声を掛けた。「この部屋にいるのは、あなたに呼ばれたからです。あなたが私を呼んだんですよ」 「えっ?」と日向は声をあげ、戸惑いの表情を浮かべる。 「今のあなたは昔と違って、ひとりぼっちじゃありません。確かにこの町で起きたできごとは、あなたの心に忘れられない傷を作ったでしょう。でも朔夜くんと出会ったことで、いろいろな人と出会い、話をするようになったではありませんか」 「きみは何を言ってるの?」 「今のあなたには信頼できる友だちもいる。心強い味方である奏くんとも前よりずっと会えるようになった。そして……結婚を約束するくらい大切な人も」  瞬間、日向の頭の中に何かがよぎった。何か大切なことを忘れているときのような、喉に魚の小骨が刺さったような違和感を感じる。  だが十五歳の日向は、それが何か気づけなかった。同時に、そのいやな感覚から目をそらしたのだ。  幼い子どもの頃、友だちができないさびしさを埋めるため、父親に愛されない現実から心を守るために頭の中で作り上げた友だち。  そんな陽炎に対して日向は警戒心を強める。 「なんのことだか、ぜんぜんわからない。きみは一体……」 「あなたは忘れたくないと思っているはず。つらくて悲しいことも一杯あったけど、そのできごとがあるから今のあなたがいる。朔夜くんと過ごした日々の思い出が、記憶があなたを突き動かした。思い出してください。なんで自分がこの場所にいるのかを」  日向の木刀を握る手に汗が滲む。どうして幻であるはずの陽炎が今さら現れたりするのだろうと内心焦っていた。 「【彼】の作り上げた、このいびつな世界を抜け出すのは、とてつもなく巨大な迷路を抜け出すのと同じくらい困難です。こうやって私があなたに呼びかけても、なんの意味もない。――ですが気をつけてください。  この舞台は、もはや【彼】があなたたちの記憶をもとに作った舞台ではありません。【亡霊】の怨念により私のように現実では存在しえないものですら本物として具現化されるようになってしまった」 「ちょっと待って。それは……」 「だから――現実世界で、とうの昔に亡くなっている人たちすら呼び寄せてしまったんですよ。新たな役者として彼らは、この舞台へ立とうとしています。偽りの肉体を得て【彼】に操られることもないまま、あなたや朔夜くんへの理不尽な怒りや憎しみをぶつけ、あなたたちを陥れ、ふたたび傷つけようとしている」  すると突然、日向の目の前にいた陽炎の体が左右にぶれる。まるで砂漠で昼間見られる蜃気楼のようにゆらゆらと揺らめいた。  瞬間、ひどい耳鳴りと激しい頭痛を感じて日向は膝をついた。  目に鋭い痛みを感じ、涙があふれてくる。  陽炎が何をするのか目を離さないようにしなくてはいけないのに、反射的に目を閉じてしまったのだ。  そうして数秒後、ふたたび目を開けると陽炎の姿はどこにもなかった。 「なんだったんだろう……夢?」  陽炎の存在を気味悪く思いながら日向は勉強机の上にある時計へと目をやった。いつの間にか時刻は朝の六時半になっている。  木刀を机の横に置き、カーテンを開ければ、朝日が部屋へ差し込んだ。 「日向ー! 朝から英語のお勉強? 朝ごはんができたわよー」と明日香の声がする。  ゆっくりとした足取りで日向はドアの前に立ち、ドアノブへと触れる。それから、ゆっくりとした足どりで階段を下りていき、リビングへと向かった。 「おはよう、日向。まだ制服に着替えてなかったの? 珍しいわね」  そうして明日香はカリカリに焼いたトーストを載せた白い陶器の皿を日向の席に置く。テーブルには半熟の目玉焼きにハムサラダもあった。 「おはよう……お母さん」 「なあに?」  ピンクのTシャツにジーンズ姿の明日香が首をかしげる。 「その、おじいちゃん・おばあちゃんや奏くんが来てたりする?」  日向は眉を八の字にして明日香に尋ねた。 「どうしたの急に?」  目を丸くさせた明日香が冷蔵庫の中から牛乳を取り出す。 「いや、なんとなく、誰かが来てたような気がして……」 「やあね、誰も来てないわよ。おじいちゃんとおばあちゃんは、こんな朝早くから来たことなんて一度もないわ。奏くんだって、来る前に必ず連絡をくれるし」

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