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第13章 夢7

 その間、雪緒はしれっとした顔のまま二本目のビールを求めて冷蔵庫へと足を向けた。 「発情期が来ていたのに抑制剤を服用しなかったわたしに罪はあっても、生まれてきたこの子に罪はありません! お義父様も、あなたには厳しくても、この子にはよくしてくれます。あなたやお義母様、お義姉様たちと違って『何者であろうと関係ない』とまで言ってくれました。あなたの血をわけた唯一の子どもであり、長男であるのは日向だけです!」  悔しそうに捨て台詞を口にした明日香は日向を抱え、木でできた古いドアを押し開け、乱暴に閉じる。  十五の日向は椅子に縛りつけられたかのように身動きがとれないまま、母親の明日香が三歳の自分を抱きかかえ、家を出ていく姿を静かに見つめていた。  数秒経っても日向は観客のいない舞台の上にいる。  もといた場所へ帰れない。そんな状況にもかかわらず、なぜか日向はパニックを起こさずにいた。異様なほど冷静な頭で一連のできごとについてを考える。  これは本当にあったできごと? それとも、ただの夢? 僕は、子どもの頃、お父さんが怖かった。行儀がなってないと殴られ、怒鳴られ、オメガであること、オメガの母を持つことをなじられるたびに心が血を流した。  だけど、と日向は黒曜石のような瞳を細め、ビールをグビグビとあおっている父親のことを、じっと観察する。  三歳の僕が殴られたのが夢じゃなくて現実なら、僕は涙を流して呆然自失状態になっていた。父親に殴られたことに絶望し、ショックを受けていたんだ。このできごとを覚えているとは到底思えない。それに子どもの僕は、お母さんに連れて行かれて外へ出ていったはず。それなのに、どうして僕は今、お父さんの行動を知ることができているの?  これは僕の記憶じゃない。誰の記憶……? 誰が見ていた景色なの?  雪緒の背後には、いつの間にか陽炎がいた。日の光ですら飲み込んでしまう真っ黒で底しれない井戸のような目で、じっと雪緒のことを見ている。  だが雪緒は、陽炎にも、十五歳の日向の姿にも気づかない。電話の受話器を手に取り、数字の押しボタンを押し終えると電話の呼び出し音が鳴る。  三コールめには男が「はい」と出た。  すると雪緒は、明日香や日向には見せないような穏やかな笑みを浮かべる。 「よう、元気か?」 『碓氷さん、どうしたんですか、こんな時間に』 「いや、家族の愚痴をおまえにこぼしたいと思ってな」  ビールの入った缶を手にした雪緒は立ったままの状態で、楽しそうに電話口の男と話しをする。  誰に電話しているのか気づいた日向は今すぐ両耳を塞ぎたい気持ちになる。  しかしながら手には力が入らず、膝の上から一ミリメートルも動かない。日向は父親の姿をこれ以上見たくないといわんばかりに顔をうつむかせ、目線を床へやった。  その一方で、陽炎は親を殺したかたきにでも対峙したときのように眼光鋭い目つきで、雪緒を睨みつける。 「オメガの女なんかと結婚しなきゃよかったよ。これならベータやアルファと結婚したほうがマシだった」 『酔っ払っているんですか? いくらなんでも、それじゃ奥様やお子さんがかわいそうですよ』 「いいんだよ、べつに。俺には部下であるおまえや姪、甥のほうが大切なんだ。あんな女とガキなんざ、どうでもいい。むしろ、さっさとくたばってほしいくらいだ。あーあ、事故にであって死んでくれたら楽なのにな」  体の芯まで冷えていくのを感じながら日向は唇を真一文字に結び、眠るように目をつぶった。 「――これでわかったでしょう。お父さんは、あなたのことも、お母さんのことも愛していない。そんなやつの言うことをいつまで守るつもりなんですか?」  雪緒のところから日向の隣に来た陽炎が問いかける。  何も見えない、何も聞こえない、何も感じないと日向は自分に嘘をついたのだ。 「――日向、寝ながら食べたりしたら喉に詰まらせるわよ!」  明日香に体を揺さぶられた日向は、目を見開き、まばたきを繰り返す。 「あれ?」  気がつくと日向は、舞台でなく明日香とともに住んでいる家のリビングに戻ってきていた。左手には食べかけのトーストがあり、右手にはフォークを握っている。  テレビのニュースキャスターが「続いては今日の天気です」と決まり文句を口にし、天気予報士の名前を呼んだ。  ニュースキャスターの顔が見えなくなり、天気予報士の女性が画面に映った。 『今日の天気は晴れ、ときどきくもりです。日中は四十度近い気温となります。屋外はもちろん、屋内でもこまめに水分補給を忘れずに』  テレビの左上に映る時刻を見るなり日向は朝食の残りを口の中へとかき込んだ。慌てて食器を手にして立ち上がり、空になった皿をキッチンのシンクへ置いて水につける。バタバタと足音を立てながら洗面所へ向かった。  髪をとかしている明日香の横から歯ブラシを手に取り、水につけた。歯磨き粉をつけ終えたら急いで歯を磨く。  そんな日向の様子に明日香は困り顔をした。 「朝から居眠りなんてして平気? どこか具合でも悪いの?」  手で「どいて」と日向はジェスチャーをする。  ブラシを手にした状態の明日香は洗面所の鏡の前から風呂場の前へ移動した。

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