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第16章 傷を舐め合い、痛みを共有する1

「先生……って、あれ? いねえな」  朔夜は保健室のドアを開け、部屋の中を見回した。  菖蒲のもとを去ってから、うんともすんとも言わない日向の手をやさしく引いて、簡易ベッドの上へ座らせる。日向の手を離した朔夜は自らのあごに手をやり、うーんとうなった。  窓をすべて開け放ってある保健室に生暖かい風が吹き込んだ。 「職員室で緊急会議なわけねえし、トイレには職員用の上履きもない。先生、具合が悪くなって休みなのか?」  考えてもわからなかった朔夜は保健室の常連だからと救急箱を開け、湿布を取り出した。 「日向、入室記録の名簿に名前、書いとけよ。日向?」  日向は顔をうつむかせ、唇をきゅっと結び、目線を床にやっていた。  不審に思った朔夜は腰をかがめ、恋人の顔を覗き込んだ。 「どうした? 熱中症になって具合が――」 「違うよ、さくちゃん。そうじゃないの」 「じゃあ、どうして、そんなにつらそうな顔をしてるんだ?」  おもむろに顔を上げた日向は自嘲的な笑みを浮かべ、微笑んだ。 「なんで、みんな、放っておいてくれないのかな?」と日向は瞳を揺らしながら答えた。「僕たちは魂の番で僕はさくちゃんのことが好き。さくちゃんも僕のことを好きでいてくれてる。だから、そばにいたい。ただ、それだけなのに、どうして、うまくいかないんだろう……」 「……虹橋のことが怖いのか? 友だちだと思ってたのに、ひどいことを言われたから悲しい?」 「それも少しある。でも、さくちゃんが隣にいてくれるから平気。だけど……」  そうして日向は右手で自分の左手を掴み、爪を立て、肌に食い込ませる。 「なんで、なんで光輝くんも、菖蒲ちゃんもあのときのことを根掘り葉掘りするの? どうして、さくちゃんや僕が加害者にならなきゃいけないんだろう……? 悪いのは坪内さんたちと僕のお父さん、光輝くんのおじさんにオメガを嫌う大人たちだよ……なのに、どうして……」  痛みを堪えるような表情を浮かべた日向は顔を横にそむけた。  朔夜は日向の隣に腰かけ、自傷行為をしている日向の右手をそっと手に取り、握りしめる形で止めた。 「それだけ、あの人たちの存在が、あいつらの中でデカかったんだろうな。いい意味でも、悪い意味でも。坪内さんたちと俺らは不仲だし、あの兄妹が死んだ夜も、そばにいた。光輝も、虹橋さんも実際に、あのふたりが死んだときのことを知らない。  そのせいで今も、坪内兄妹の死に疑問を持ってる。ふたりとも理由は違えど、俺たちの口から語られる真実を知りたがってるんだよ。だから昔のことを掘り返そうとするんだ。被害を受けた人間がどんな思いをしたか、その話題を出されてどう思うかなんて、ちっとも考えてない」  灰色の瞳でまっすぐ見つめられた日向は、不安げな顔をして朔夜の目を見つめ返す。 「……僕たち、警察に捕まっちゃうのかな?」 「バカ言うなよ。捕まるんだったら、とっくの昔に捕まってる。ふたりして牢屋の中にぶち込まれてるよ。でも俺たちは無罪放免で済んだ。今も普通に生活して学校へ通ってる」  思わず「おまえは塀の中にいたほうが、いやな目にあわずに済んだのかも」と口を突いて出そうになるのを朔夜は我慢し、口をつぐんだ。 「でも、さくちゃん……菖蒲ちゃんも疑ってたよ。それに、あの日から三年しか経ってない。これ以上、調べられたら、僕……」  朔夜は、今にも泣きそうな目をした日向を抱きしめた。 「大丈夫だ。そのときは俺も一緒に行く。魂の番だからじゃない。恋人であるおまえを助けるために、王となるのを条件にして、あいつらを利用した。おまえを助けるためにやってはいけないことをやった俺も、同罪だ」 「……どうして? どうして、じつの父親にすら『いらない』、『死ね』って言われる僕に、さくちゃんは、やさしいの? 僕が魂の番であるオメガだから大切ってこと?」 「魂の番であるオメガっていうのも理由のひとつだ。けど、多分、おまえがオメガやベータでも変わらず助けたよ」 「そう、だよね」  筋肉がうっすらとつき、汗ばんでいる朔夜の胸を軽く押し返し、日向は曖昧な笑みを浮かべた。 「さくちゃんは困っている人がいたた必ず助ける人。僕がきみと同じアルファや大勢のひとりであるベータだとしても見過ごせないって思うよね。……もし、僕たちが魂の番じゃなかったら、きっと今みたいに付き合ったり、手をつなぐこともなかったよね。普通の友だちでいられたかな? それとも同じクラスにいても、ほとんど会話もしない他人同士に……」 「ちげえよ、バカ」  やさしくどこか甘さを含んだ口調で朔夜は日向の言葉を否定する。穏やかな笑みを浮かべ、日向の左頬へと手を伸ばす。 「宝物みたいに大切な人だからだ。俺の世界も、考えも、何もかもをすてきに変える魔法をかけてくれた。そんな日向のことが好きだから、やさしくしたい、大切にしたいって思うんだよ」  日向の頬に当てた手を額へとずらし、濡羽色の前髪をかき上げた朔夜は、触れるだけの口づけをした。 「おまえがたとえ強くなれなくても、おじさんから死を願われ、居場所がなくても、俺がいる。おまえを守るって約束しただろ」

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