150 / 157
第20章 白昼夢4
木でできた扉を彼女は軽くノックする。
「お兄ちゃん、部屋に入るね」と一言断って中へ入った。
最新ゲームや漫画、テレビにベッドが置かれている広々とした子ども部屋。勉強机には、小学校低学年だった頃の空と光輝、そして朗らかな笑みを浮かべる空の母親が写った写真立てが飾られていた。
光輝は布団を頭までかぶって寝ていた。
「具合が悪いの?」
「ああ、最低な気分だよ」と光輝は震え声で答える。
「ねえ、どうして、そんなに日向くんに意地悪をするの? 妹であるわたしが日向くんのことを好きだから? それともアルファである絹香ちゃんや朔夜くんへのあてつけ?」
「……違う。そんなんじゃない。あいつがオメガだから、いじめてるだけだ。日向がベータやアルファで生まれていれば、ここまでいじめる理由だってなかった。おまえの恋だって兄として素直に応援できたんだ」
「だったら、どうして? わたしには、お兄ちゃんの気持ちがちっともわからないよ。だって、お兄ちゃんのお母さんは……」
ガバッと勢いよく起き上がった光輝は空の足元に枕を投げつけた。
「あのアバズレの話を、ぼくの前でするなって何度も言ってるだろ!」
「お兄ちゃん……!」
「ぼくだって、おまえと同じようにベータである母さんから愛されたんだ! あんな気味の悪い……誰にでも足を開くような……魂の番であるアルファを選び、子どもや夫を捨てる、ぼくや父様を見捨てた……あんな最低女 の子どもじゃない……!」
そうして光輝は泣き崩れた。
空は、何年か前に自分の母が光輝を慰めていた姿を思いだす。滂沱の涙を両目から流す光輝を抱きしめ、あやしていた。
『空、光輝くんは意地悪なところもあるけど、やさしいところもあるのよ』
『そうなの、お母さん?』と空は母親の肩に抱きつき、横から顔をのぞかせて聞いた。母親の膝は泣き疲れた光輝が占領していたからだ。
『うん。いっぱいやさしくして、愛されているって気持ちが伝われば、きっと光輝くんも意地悪をする回数が減って、やさしい人になってくれるよ。だから、お兄ちゃんのことを嫌わないであげてね』
かつて母親がやっていたことを真似て彼女は兄の背中を撫でたのだった。
――空の母親は、まだ三十後半でありながら子宮癌の末期になっていた。もはや救う手立てはない。
一度ならず二度も「母親」をなくす事実を光輝は受け入れられず、荒れに荒れた。
空の新しい父で、光輝の実父である太 陽 は、こんなときにも「仕事が忙しい」と言って、新しい妻に付き添うことをしなかった。
青白い顔色をした空の母親が隣にいる娘に声を掛ける。
空は今にも泣きそうな顔をしながら母の真っ白で力の入っていないな手を、ぎゅっと力強く握った。
「空は、お父さんのことが大好きだったのに、お母さんが光輝くんのお父さんと再婚して新しいお父さんになった。新しいお父さんと打ち解けるのに苦労して、突然同い年の兄妹ができて大変な思いをさせちゃったね。母親らしいことも、ほとんどできなかったのに、あなたを置いて逝 く。こんな母親でごめんね」
「お母さん、今は自分のことを一番に考えて。わたし、亡くなったお父さんのことを今でも覚えてるし、大好きな気持ちは変わらない。でも、お父さんがいなくなった日から、お母さんの元気がなくなったのも知ってるよ。
だから、新しいお父さんができて、ほっとしたんだ。また、お母さんが笑顔になってくれたから。お兄ちゃんと喧嘩をして、しょっちゅう言い合いになったりするけど安心して。なんとかふたりでやっていけてるもの」
「空……」
「心配しないで。わたし、そんなに弱くないよ。日 ノ 目 家でも平気。だから元気を出して」
そうして空の母は安心したように微笑み、目を閉じた。空の小さな手から母親の手が、すり抜け、ピーと甲高く耳障りな音が室内いっぱいに響いた。
「お母さん? お母さん!?」
花瓶の水を取り替えていた光輝は、病室の前で陶器でできた花瓶を落としてしまった。ひどい音がすると花瓶が粉々に砕ける。
きれいに活けられていたオレンジのガーベラが、無惨にも床に散らばり、慌てて病室へ駆け込んできた医師によって踏みつけられた。
「……お母さん」
表情の抜け落ちた光輝は入口で、ぼうっと突っ立っていた。まるでモノクロ映画を見るように空が肩を震わせて泣いたり、看護師たちが忙しなく動く光景を、ただ漫然と眺めていたのである。
泣きやんだ光輝が顔を上げる。涙や鼻水で、ぐじゃぐじゃになった顔を腕で乱暴に拭う。
焦点の定まっていない目つきをした光輝は、ふらふらとした足取りで部屋のドアの前まで歩いていく。
「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
「……トイレだよ、用を足しに行ってくる」
「あのね! お手伝いさんが、おやつを用意してくれてるよ。それとほっぺ、そのままじゃ痛いでしょ。湿布、貼ろうね。わたし、準備しておくから」
「ああ、ありがとう」
空は、ほっと息をつき、笑みを浮かべた。
一階のトイレに入り、鍵をかけた光輝はパーカーのポケットに入れてあった銀色のスマートフォンを取り出し、電話を掛けた。
ともだちにシェアしよう!

