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第21章 じれったいふたりの距離2

 バニラの香りは日向が発するオメガのフェロモンに、よく似た香りだ。友だちの言葉を受けて、さっと朔夜は頬を染めた。 「……よし、行くんだな!? そうと決まったら急いで行こう!」 「おい、人の話をちゃんと最後まで聞け、衛!」 「まだ、散歩をする!」と無言で主張し、飼い主を困らせる犬のようにその場から動こうとしない朔夜のことを、衛は無理やり引っ張りながら歩いていったのだ。  家庭科室の前には、すでに人だかりができていた。  朔夜たちと同じサッカー部の穣に野球部の好喜と角次。それからバスケ部の絹香、バドミントン部の鍛冶、疾風の姿もある。  ほかの学年の子どもたちも甘く、香ばしい香りに惹かれてやってきていた。六年生たちを遠巻きにしながら「いいな……」という目をしたり、「おいしそう」とつばを飲み込んで家庭科室のほうを見つめている。 「あら、あんたたち、ずいぶんと遅かったじゃない」  髪の毛をポニーテールにした絹香が、衛と朔夜に話しかける。 「ああ、今日は片づけ当番だったからな。後、叢雲のやつが、こっちに来るのをいやがってたんだよ。連れてくるのに骨を折った」 「おい!」と朔夜は隣にいる衛の腕をひじでつつく。  ワンテンポ遅れてしまったため衛の言葉は全部、絹香の耳に入ってしまった。  目をすがめて、彼女は冷笑を浮かべる。 「へえ……どうしたのかしら、さあちゃん? いつもクラブ活動のある日は家庭科室に一番乗りだったじゃない。何か、不都合でもあるの? たとえば……顔を合わせにくい人がいるとか」 「そっ、そんなんじゃねえよ!」と朔夜は、がなる。  絹香はグイと朔夜の腕を掴み、身をかがめ、耳元で囁いた。 「あいかわらず嘘をつくのがへたね。あんた、ひなちゃんを悲しませて何がしたいわけ?」 「……おまえには関係ねえだろ」 「魂の番だからって、あぐらをかいてるの? そんなんだと、いつかひなちゃんをべつの人にとられちゃうわよ」  その瞬間、朔夜は顔をバッと上げ、険しい表情を浮かべながら、幼馴染の女を凝視する。  家庭科室の前にいる衛を始めとした男子は、絹香と朔夜の一触即発な様子に内心ハラハラしていた。 「今のあんたは最低最悪。アルファとしても、男としてもどうかしてるわ。オメガであるあの子を期待させて落としたも同然だもの」 「っ……!」 「それから、あたしもアルファの端くれだってことを忘れてないで。そうやってひなちゃん(オメガ)を悲しませるなら、あたしがもらうわ」  自分よりも格下のアルファが口にした言葉に対して、朔夜は怒りをあらわにする。 「ふざけんな……冗談でも言っていいことと悪いことがある。あいつは俺のオメガだ。俺の番になる相手だぞ。たとえ、おまえでも日向を奪おうっていうなら、容赦しねえ」  ところが絹香は、ひょうひょうとした様子で「あっ、そ」と興味なさそうに返事をしたのだ。それどころか挑発的な笑みを浮かべ、うなり声をあげそうな朔夜へ微笑みかける。「そこまで言うんだったら、お手並み拝見といこうじゃない」  不敵な笑みを赤い唇に浮かべ、彼女は(こく)(たん)のような髪を後ろになびかせた。そうして幼稚園の頃からのともっである洋子と日向のところへ向かう。 「おいしそうなものができたわね」 「そうなのよ、絹香ー。といっても、今回はわたしがメインで作ったんだけどねー」 「あら、どうしたの、ひなちゃん?」  幼稚園のときから日向は母である()()()の手伝いをしてきた。小学生になってからは父親である(ゆき)()が、実家から仕事先である県庁へ通っているため、ふたり暮らしも同然だ。だから彼は炊事、洗濯、掃除を得意としていた。甘いお菓子を食べるのが好きな明日香のために、いつの間にかお菓子作りまでするようになっていたのだ。 「今日はちょっと調子が悪いみたい。失敗ばかりしてるんだ」と日向は眉を八の字にして苦笑する。 「珍しいこともあるものね」 「でしょー? なんだか、ひなちゃんったら、ずーっとぼうっとしててね。卵を割るときには殻がたくさん入っちゃったしー、混ぜてた生地も一回床に落としちゃったのよー」 「ええっ……ひなちゃん、大丈夫?」と絹香が眉を寄せた。  朔夜は、日向の仕草や動作をよく観察するために灰色の目を凝らした。 「僕は大丈夫だよ。それより洋子ちゃん、ごめんね。足を引っぱってばかりで……」 「いいのー、わたしのことは気にしないでー。早く元気になってねー」  困り顔のまま、ぎこちない笑みを浮かべている日向の姿を遠くから見ていて、朔夜の胸はぎゅっと締めつけられるように痛んだ。  タイミングよく六時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。  下級生たちは慌てて自分たちの教室へと戻る。  家庭科室にたむろっていた六年の子どもたちも、お菓子目当てでない者は、階段のほうへと移動し始める。 「いっけなーい。わたし、飼育当番を忘れてたわー」と洋子が大声を出す(彼女は誰が見ても、芝居とわかる演技をしたのだ)。 「もう何してるのよ、洋子。鳥たちがおなかを空かせてるじゃない!」と絹香が洋子に合いの手を打つ。 「だよねー、絹香。手伝ってー」 「ええ、あたぼうよ」

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