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第21章 じれったいふたりの距離3

 何を考えているのかよくわからない顔をした洋子が、ズイと朔夜に顔を近づけた。  彼女から、ただならぬ気迫を感じた朔夜は、思わずたじろぐ。 「なんだよ……」 「さあちゃん、倉庫の鍵、持ってるよね。返しに行くのー?」 「そうだけど」 「じゃあ、わたしが代わりに行ってきてあげるー。その代わりにー、洗ったお皿を片づけて。ひなちゃんと一緒に、よろしくねー」  朔夜と日向は同時に「「えっ!?」」と戸惑いの声をあげる。 「先生、こんなのありかよ? 俺、調理部じゃないんだけど!?」  すぐに朔夜は直談判した。  しかし調理部を監督していた教師は洋子と絹香から、日向と朔夜が喧嘩をしていて、なかなか仲直りできないという話をあらかじめ聞いていたので「ありよ。朔夜くんと日向くんは、洋子ちゃんの代わりに後片づけを頼むわ」と洋子の言葉に賛同したのだ。  そんなことをつゆも知らない朔夜と日向は動揺する。 「ありがとーございまーす」 「というわけで鍵、もらってくわね。さあちゃん」  ぼうっと突っ立っている朔夜から鍵を引ったくると、絹香は洋子とともに猛ダッシュで家庭科室を出ていった。 「先生も一旦職員室に戻るわね。担任の水島先生には事情を話しておくから安心して。でも長居は禁物よ。十分後には確認しに戻ってくるから、それまでには片づけを終わらせて、仲直りもして、教室へ帰るのよ」  ふふふと笑いながら教師も出ていってしまい、朔夜と日向は家庭科室でふたりきりになった。 「ったく、しょうがねえな」  渋々ながら朔夜は水道の蛇口をひねり、石けんで手を洗い始める。  日向は無言のまま、ゆっくりとまばたきを繰り返していた。  朔夜はちらと背後にいる日向に視線をやり、白くきめ細やかな泡がついた手を水で洗い流す。 「ほら、さっさとやろうぜ。ふたりでやれば早く終わる」 「大丈夫だよ、さくちゃん。片づけは僕ひとりでも平気。だから、さくちゃんは先に教室へ帰ってて」  蛇口の栓を閉め、朔夜はジャージの中に入っていたハンカチで手を拭いた。 「おまえの邪魔にはならねえよ。それとも……俺がそばにいるのが、いやか?」  表情を固まらせた日向は「そんなことないよ」と、どこか哀愁漂う顔つきをして答えた。「でも、坪内さんが、さくちゃんが帰ってくるのを待ってるから。僕が、さくちゃんを捕まえてたって話したら、きっと悲しがるよ」  白い布巾を朔夜は手に取った。そうして水切りかごの中に入っているボウルや泡だて器に付着した水滴を丁寧に拭いていく。  ベタベタ身体を触ってきて、甘ったるい声で話しかけてくる希美の姿はない。好きな子と、ふたりきりになり、落ちついて話ができる状況は朔夜にとっては、うれしいできごとだ。  それなのに……思い人は、どこか浮かない様子でいる。おまけに、わざわざお邪魔虫である希美の名前を出して「教室へ帰れ」と示唆してきたのだ。朔夜は「どうして、そこで坪内さんの名前が出るんだよ」とトゲのある言い方をする。 「それは――坪内さんが、さくちゃんのことを好きだから」  小さな声でつぶやいたきり日向は顔をうつむかせ、黙ってしまった。  大切なことは言葉にして伝えなくてはいけない――自分の気持ちを日向に言おうと朔夜は、つばを飲み込んだ。今までは日向から拒絶されることを恐れて何もしないでいた。  幼稚園のときに告白したのだから、今さら伝えなくてもいい、と日向が自ら引いた線の外にいて日向が来てくれるのを待ち続けていたのだ。  しかし日向は自分から線を越えようとはしない。線の外で首を長くして待っている朔夜の存在に気づかないままだ。  だから朔夜は勇気を出して、自分から日向が引いた線を(また)いのだのである。 「俺は坪内さんを、ただのクラスメートとしか思ってねえよ。だから好意を寄せられても困るんだ。俺の好きな人は昔から、たったひとりだけ。その人に浮気性なやつだと誤解されたくねえし、平然と約束を破るやつだと勘違いされたくねえ。前みたいに話したいし、笑いかけてほしい。それから――俺のことをアルファとして、男として、意識してほしいんだ。ほんの少しでいいから好きになってほしいと思う」  日向はおもむろに顔を上げ、朔夜の背中をじっと見つめた。  鳶色の髪が太陽の光を受け、赤く燃える、かがり火みたいだ。灰色の瞳は清涼な川のように青い。  その瞳がかすかに揺れているのを目にして、日向は唇をかすかに震わせた。彼の身体や頬は、次第に上気し、じんわりと熱くなっていった。 「ねえ、それって僕のこと?」と言いかけたところで日向は口をつぐんだ。  ため息をついて朔夜は拭き終わったボウルや泡だて器を、日向へ手渡した。 「これ、もとあった場所に戻してくれねえか?」 「……うん、わかった」  弱々しい声でそれだけ言うと日向は、あからさまに朔夜から目線を外す。彼に背を向ける形で食器棚のガラスでできた扉を横にスライドさせ、食器を定位置へと戻していった。  朔夜は目元を赤く染めた。涙が目に浮かびそうになるのをグッとこらえ、手早く拭いた皿を戸棚に入れ、布巾を洗濯バサミに挟んで干す。

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