155 / 156

第21章 じれったいふたりの距離4

「日向、こっちは終わったぞ。そっちは――」  そこで朔夜は、はたと気づく。ボールを上の棚へ返そうとしている日向の動きが、どこかぎこちなく、手足がひどく震えていることに。 「あっ……!」  丸椅子をステップ台代わりにしていた日向はバランスを崩し、背中を床へ打ちつけそうになる。 「日向!」  間一髪のところで朔夜は日向を受けとめた。  それにもかかわらず日向は息を詰め、顔を歪ませる。 「おまえ、まさか……」  眉間に深くしわを刻み込んだ朔夜が、日向の着ているワイシャツのボタンを外そうとする。  慌てて朔夜の手を止めようとする日向の抵抗は弱々しいものだった。 「さくちゃん……やだ……!」  ワイシャツのボタンを三つ開けたら、日向の鎖骨や肩の付近、胸元周辺の肌が青黒く変色している。 「これ……おじさんにやられたんだな」 「違うよ! これは光輝くんと揉めたときの痕で……」 「おまえを何度も殴って痛めつけるほどの度胸は、やつにはない。嘘、つくなよ」  有無を言わさぬ様子で朔夜が詰問すると日向は力なくこうべを垂れ、目を閉じた。  朔夜の魂の番であるオメガを、自分の命と同じくらい大切な宝物を、日向のじつの父親である(ゆき)()が痛めつけた。その事実は朔夜の心を問答無用でズタズタに引き裂いた。  アルファといっても十一歳の子どもで身体も、心も大人に近づいていない朔夜にできることなど、ないも同然だ。  彼が歯がゆさを感じていれば、日向が「そんな顔をしないで、さくちゃん」と今にも泣きそうな顔をして慰める。「ねえ、幼稚園のときの約束を覚えてる? たんぽぽの冠とシロツメクサの花でできた指輪をくれたときのこと」  日向は、そっと自分の水色のワイシャツを握る朔夜の左手へと触れた。灰色の瞳を凝視し、朔夜の言葉を待つ。 「忘れるわけがねえ。幼稚園児のチビだからって考えなしに言ったわけじゃねえよ。あの公園で出会ったときから、俺の気持ちは変わらねえよ。おまえのことが――好きなんだ」  黒曜石のような瞳を見つめながら朔夜は自分の気持ちを日向へ伝えた。  日向は胸を高鳴らせながらも顔をうつむかせる。  どうしよう……早く、さくちゃんから離れないと坪内さんが来ちゃう! さくちゃんのそばにいたら、また、あの冷たい眼差しで悪意のこもったトゲのある言葉を掛けられちゃうのに……。  しかし日向の手は一向に動かない。父親に痛めつけられたから力が入らないのではなく朔夜を拒みたくなかったのだ。服越しに伝わる体温や、心音をもっと感じたかった。甘く高貴な月下美人の香りを肺いっぱいに吸い込み、傷だらけの身体を抱きしめて慰めてほしいと望まずにはいられなかったのである。 「……ねえ、さくちゃん、どんなに女の子みたいな顔をしていても、子どもを生める子宮を持つオメガでも、僕はきみと同じ男だよ。坪内さんみたいにきれいな顔も、長い髪も、やわらかい身体もしてない。最初から子どもを生める女の子とは違う。オメガを差別する人たちや同性愛を嫌う人たちから一生、後ろ指を差されるし、オメガとして成熟して発情期が来れば僕は、さくちゃん以外のアルファや男たちの精液を求めるただの(けだもの)になる。だから父親にすら愛されない。そんな人間が、さくちゃんのそばにいていいわけがないよ……」 「んなもん、全部関係ねえ」と朔夜は、やさしい眼差しをして穏やかな笑みを浮かべた。「おまえが男だって、四つの頃からわかってる」  朔夜は壊れ物を扱うような手つきで日向の背に腕を回した。 「光輝たちがおまえを嫌って、いじめても、おじさんがおまえを邪険に思って殴っても、日向が俺の魂の番である事実は変わらねえ。おまえを好きな気持ちは、あの頃も、今も同じだ。いや、むしろ今のほうが、もっと好きになってる。ほかの男にも、アルファにも誰にも渡したくねえ。  おまえが怪我をすれば、自分が怪我をしたときみたいに身体が痛くなる。おまえが苦しい思いや、つらい思い、悲しそうにしていると、息もできなくなるくらいにつらい。今みたいに泣きそうな顔をしているときは『どうしたら笑ってくれるんだろう?』『笑顔になってほしい』って願わずにはいられねえ」  腕を緩めた朔夜は、目を潤ませ、不安そうな顔つきをしている日向の頬へ恐る恐る手をのばす。  そうして数年ぶりに朔夜は日向へと触れた。滑らかで、やわらかな肌は、かすかに冷たくなっている。薄桃色をした頬を親指の腹で撫でる。  日向は灰色の瞳を見つめながら、朔夜の手で触れてもらっていることに喜びを感じる自分に戸惑いを覚えた。 「最近、僕は、どうかしてる」と独り言を口ずさむように日向は告げた。「さくちゃんが坪内さんと話しているだけで悲しくなる。あの子がきみに触れている姿を見ると胸が堪らなく痛くなるんだ。どうしてさくちゃんの隣にいるのは僕じゃないんだろう。僕だって、いっぱい話したいことがあるのにって胃がムカムカする。幼稚園のときみたいに頭を撫でてほしい。手をつないだり、元気の出るおまじないをいっぱいしてほしい。それのに、なんで坪内さんが、さくちゃんのそばにいるの? って……」

ともだちにシェアしよう!