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第24章 ドキドキ初デート4

 明日香は、いい加減やめたかった。もう逆上がりなんて、このままできなくてもいいと思っていたのだ。  たとえ体育ができなくても「オメガだから」と先生や周りの人は納得してくれる。  両親だって、とやかくうるさいことを言わない。  それでも真弓が根気よく逆上がりの練習に付き合ってくれて、ふたりだけの時間を共有できるのがうれしかったのだ。  真剣な顔つきをして「オメガだから運動が苦手でも仕方ない」などと言ったりしない。  あれこれ工夫して、明日香ができるようにするには、どうしたらいいかを真剣に考える。  そんな彼女のやさしさをお節介だとうとましく感じたり、ありがた迷惑だといやがる子もいるが、明日香は真弓のそういうところが好きだったのだ。 「――ねえ、真弓ちゃん。わたし、間違ってなかったよね?」  息子を見送った明日香は誰に言うでもなく独り言をつぶやいた。  時間通りに町営バスに乗れた日向は、乗車券を取り、バスの最後尾のほうへ歩いていく。左側の窓際の席に着くと「発車します」とバスの運転手である男性の声がして、ドアが閉まった。  日向は窓の外の風景を眺める。  初夏の青々とした木々が見え、涼しそうな小川の上にかかった橋の上をバスが通る。  空は晴天。気温は適温。すがすがしく、さわやかな五月の風景だ。  バスは、ジェットコースターやボートライドのように丘を下り、赤信号で止まった。  アスファルトでできた道路の周りに民家や病院、スーパーや美容院などの建物がちらほら姿を現す。  バスは停車するたびに町の人々を乗せ、一定の速度で走る。  ひとりでバスに乗るのは、初めてではないのに日向は、気分が高揚していた。代わり映えのない町の風景も、なぜか今日は、すてきなものに見えてくる。  日向は、頭の中で朔夜との予定を確認した。  さくちゃんと合流したら電車に乗って、|虎《とら》|縞《じま》市の駅ナカのお店を見たり、デパートで穣くんに渡すプレゼントをお買い物。時間があったら本屋さんへ寄ったり、ゲームセンターで遊んで、お昼はピザ屋さん。遅くなっても七時には家へ帰らないと……。  やっていることは、いつもと変わらない。  だが、ふたりきりで出かけるのは初めてだった。  幼稚園の頃は必ず保護者である明日香や真弓がついてきた。  小学生になっても中学年までは朔夜の兄である燈夜が面倒を見てくれたし、高学年になってからは学校で話をよくするメンバーとグループで遊ぶことが多かったのだ。  バスは順調に朔夜の家のほうへ進んでいく。  デートなんだから手をつないで歩いたり、最後にはお別れのハグをするのかな? キスは、どうだろう……? 日向は朔夜の頬や唇に触れる瞬間を想像した。  それが「恋人である魂の番たちの正しいあり方」と思えど、心たちが読んでいる少女マンガの主人公のように、ときめきや胸の高鳴りを感じることは一切ない。  かといって鍛冶の持っている少年マンガの主人公のようにキス自体に興奮したり、顔がにやけてしまうこともなかった。  日向は、ほかの乗客に聞かれないよう、ひそかにため息をついた。バスが停車すると外には朔夜の姿があった。  はにかんだ笑みを浮かべ、手を振ってくる。  その姿を目にした日向は、なんともいいようのない気持ちになりながら作り笑顔で手を振り返した。  バスに乗った朔夜は黒のキャップをはずし、肩にかけてあったボディバックを手に持ち、日向の隣へと腰を下ろす。  ふわと嗅ぎ慣れた月下美人の華やかで上品な香りがする。  肩や膝が触れてしまいそうな距離に朔夜がいる。  自然と肩に入っていた力が抜け、リラックスした状態になった日向は、銀色に近い灰色の瞳を見つめた。 「さくちゃん、おはよう」  キスの悩みなど、どこかへ消えてしまった日向は朔夜と会えたことを心から喜び、お日様のような笑みを浮かべた。 「ああ、おはよう」と朔夜は返事をし、まなじりを下げる。「昨日は緊張して夜、寝るのが遅くなっちまった。寝坊するんじゃないかって焦ったぜ」 「えっ……そうなの?」 「ああ! すっげえ胸がドキドキして壊れちまうんじゃないかって思うくらい、デートするのが楽しみで、遠足の前の日みたいに目が冴えちまったんだ。眠気が来るように小説を読んだら、まるまる一冊読んでた。まあ、兄ちゃんが叩き起こしてくれたから、こうやって遅刻しないで済んだんだけどさ! おまえは、どうだ?」  昨晩も、普段と変わらない時間にベッドへ入った。いつもよりも眠るまでの時間が、そんなにかからないどこりか早く寝ついてしまった日向は、戸惑いを感じながら返答する。 「楽しみだったから、早く朝が来てほしくて、いっぱい寝た」 「なんだよ……おまえは胸がドキドキしたりねえのか?」  そうして朔夜は黒曜石のような瞳を覗き込み、日向の手に触れる。  朔夜の手は、いつもより体温が熱くなっていた。  急に心臓がきゅうっと締めつけられるような痛みを発して日向は、おっかなびっくりし、窓のほうへと視線を移す。 「い、今、ドキドキしてる! からかわないでよ、さくちゃん……」  窓に映った日向の頬は赤く染まっていた。

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