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第56話(きなり)
「――っもう! 苦しくないの?」
「ない。したままでいい」
俺の名前の色だ、と千博さんが選んでくれたもの。
細くてシンプルで、着けていても苦しくない。
これが俺の、千博さんに大事にしてもらっている証。
「そんなに気に入ってくれた?」
ふふ、と笑みを浮かべる千博さん。
自惚れじゃなく、本当にその顔は嬉しそうに見えて。
風邪をひいて弱っていたと理由をつけて、素直になってやろうかな、なんて。
「……うん。今までで、いちばん」
そう口にして、はっと気付く。
“今まで”なんて言葉は無粋だっただろうか。
焦って千博さんの目を覗くと、意外にも優しいままで。
「なら良かった。俺、いつでもきなりの1番を目指してるからさ」
「何それ、子供っぽい」
「大事なことだよ? 好きな人の1番でいたいって気持ち」
好きな人の、1番。
そんな事はあまり考えた事がなかった……普段は。
ふ、と思い出すのは、忌々しい記憶。
1番だと疑わなかったから、今まで願ったことがなかったのかもしれない。
それが揺らいだあの日のことは、まだきちんと話していないままだ。
「千博さん……時間、まだ平気?」
「大丈夫。なんならこのまま泊まったっていいぐらい」
「……じゃあ、そうして」
そう言うと、千博さんは瞬きをして戸惑っていた。
「話したいことがあるんだ。だけど……今まで話したことがないから、上手く言えるかわかんなくて」
「……分かった、いくらでも聞くよ」
千博さんは真剣な顔をして、そう答えてくれた。
それから、布団の中に手を入れて俺の手を柔く握る。
「ただ、熱があるから無理はしないこと。明日だって構わないから」
「うん、ありがとう」
不安な時に、ストレートな優しい言葉をかけてくれる。
分かりやすい優しさには弱いから、思いがけず甘えてしまう。
いいんだ、今日くらい。
「……あのさ、俺。高校の時彼女いたって話したじゃん」
「同級生の子だよね? 1年くらい続いたっていう」
「そう。始めはちゃんと理解しあって、お互い大事にしてたんだ。これが付き合うってことなんだって、その時は思ってた」
純粋に恋人として対等だったし、俺の好みも相手の好みも上手く合ってた。
だからこそ安心して俺自身を預けられていたんだ。
このまま続くんだろうな、って根拠もなく思っていた。
「時間を経て、積み上げてきたのに……本当に、一瞬だったんだ」
たった一言で、想っていた恋人のことが信じられなくなったんだ。
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