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第66話

打たれたと分かったときには、もう片方の頬にも手が出されていた。 なんで、と声にならない思いでお客さんを見つめると、ピタリと動きが止まる。 「……そうだ。セーフワードくらい決めてあげなきゃね。何がいい?」 その質問に答えず押し黙っていると、お客さんはニヤリと口角を上げる。 「要らない? 何されてもいいの? でも、そんな酷いことしたくないからさ。今回だけ特別、俺の名前にしておいてあげる」 「え……?」 「やめてくださいって頼み込むために、嫌いな奴の名前を言わなきゃいけないなんて……可哀想だね」 つつ、と指先で頬を撫でられて。 口に親指を突っ込まれて無理やり口を開かされる。 「“夜月”って言ってくれたら、やめてあげるからね」 ぐいぐいと引っ張られている口元が痛い。 口から指が抜かれ、お客さん……元い、夜月さんから表情が消えた。 夜月さんは立ち上がって、足元にへたり込む僕を冷たく見下ろす。 「文弥、kneel」 その言葉を聞いて、さーっと体の熱が下がっていくのを感じた。 別に、この人は僕のパートナーじゃない……だから言うことなんて聞かなくてもいいのに。 また毛先すらもピリピリ痛むほどの圧を向けられて、息苦しくなる。 僕が微動だにしなくても、ただ視線を向けたまま。 その視線に捕まえられたみたいに目を逸らせなくなる。 気付けば、ゆっくりと身体は夜月さんの言ったことに従おうとしていた。 意志が伴わない所為か、ぎしぎしと関節から音がしているような錯覚すらあった。 やっとのことでkneelをすると、夜月さんは頭を撫でてぱっと笑顔になる。 「良く出来ました。偉いな文弥くん」 その言葉には、皮肉が沢山詰め込まれているはずなのに。 たったその一言をかけてもらっただけで、ホッとしている自分が居た。 「随分時間はかかったけど……俺の言うこと聞いてくれる気になったんだね」 「別に……っ、そんなこと!」 無いのに、無いはずなのに。 大人しく座ったまま口答えをしようとすると、厳しい口調で「shush」と言われて言葉を飲み込む。 悔しくて、思い通りに出来ないこの身体が怖くて。 唇を噛み締めると、夜月さんは声を上げて笑った。 「どう? それがSubの身体なんだよ」 夜月さんは笑ったまま、僕の顎を持ち上げて顔を近づけてくる。 避けようとしても、その手の力に負けてしまう。 「……文弥くんには、もう少し自分のことを知ってもらわなきゃね」 強い力で引き上げられて立ち上がると、そのままテーブルに伏せるように押し投げられる。 夜月さんは入り口近くに備え付けてあった靴べらを持ってきて僕を見つめていた。 何をされるかなんて言われなくても分かった。 鋭い痛みを背中に感じて、一瞬息が止まる。 僕の反応を見た後、夜月さんは間を開けずに背中を打ち続ける。 耐えられなくなって呻き声を漏らせば、それに答えるように強さが増す。 夜月さんの微かに笑う声も混じりながら、乾いた殴打の音が店の中に響く。 痛い、怖い、やめて欲しい。 沢山言葉は浮かぶのに、全部涙に吸われて落ちていくばかり。 何で……何で、こんな事されなきゃいけないんだろう。

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