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第137話

釈然としないもやもやした気持ちを抱えて、病室で広瀬は一日を過ごした。 菊池が語ったことや竜崎の話、橋詰の采配などが頭の中で繰り返される。 振り払おうと身体を動かしてみたが、気が付くといつも菊池のおぞましいはなしが記憶の端から蘇ってきている。 さらに、自分の音声を橋詰と竜崎は使わないと言われひどく落胆したこと、このまま菊池が大した罪にもならないことになったことを想像する。 執行猶予がつくかなにかで、菊池が再び自分の前に姿を見せたら、彼に何か、違法な復讐をしてしまいそうだった。 黒い闇が自分の中で広がっていく。 苦い心持で過ごすうちに、夜になった。 遅い時間に、東城がまた病室に現れた。 広瀬はベッドに上半身を起こし、少しでも気を紛らわせようとスタッフが持ってきてくれた雑誌を眺めているところだった。 ドアが開いて、長身の彼がゆっくりした動作で入ってくると、初めて空気の色が明るく、暖かくなった。 前に会ってから一日しかたっていないのに、懐かしい思いがさえする。 ベッドの脇に立った東城は疲れた様子もなく、朗らかだった。優しい声で広瀬の名前を呼んだ。 それから、自分に目を向けた広瀬の頬を大きな手でなで、あごを指で上向かせると、自然なしぐさで軽いキスをしてきた。 広瀬がされるがままにおとなしくしていたら、何度も唇を食まれた。 広瀬の中にも灯りがともってくる。 ようやく気がすんだようにはなれると、「退院していいってさ」と東城は言った。「さっき、スタッフから聞いた。退院しても、大丈夫だろうって。今日の血液検査の結果も改善してきてるし、家で静かにして、経過をみようって。だから、明日になったら退院」 「今」と広瀬は東城に言った。 「え?」 「今、すぐ、帰りたいです」 広瀬はそう言い切った。 ここは居心地の良い場所だが、退院できると聞くと急に家に帰りたくて、矢も楯もたまらなくなった。 東城をじっと見上げると、彼は、あまり時間をかけずにうなずいてくれた。 「わかった。じゃあ、帰る支度しててくれ」 帰りたがる理由を、東城は何も質問してこなかった。 東城は手続きをするために、病室を出て行った。

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