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第二夜
夜の九時を告げる有線放送が聞こえた。
”蛍の光”のフレーズに乗って、戸締りを呼びかけるアナウンスが木霊する。こんな田舎じゃ、どうせ誰も鍵なんてかけないのに。
ちら、と盗み見た兄は、薄闇の中で、ひどく真剣な顔をしていた。
「ああ、やっぱりお前は綺麗だな、琉 」
「――っ」
兄さんの手が僕の浴衣の袷 をなぞる。思わず身体ごと心臓が跳ねた。
祖父が着ていたという浴衣を引っ張り出してきた兄は、てきぱきと僕に着付けた。金魚の描かれた内輪と、麦茶に氷を浮かべた切子 のグラスを用意すれば、絵としての構図の出来上がり。僕のような冴えない容姿でも、“綺麗”になることができる。
「ああ、しわが寄る。動かないで」
自分は仕事帰りの、しわだらけのYシャツのままのくせに。
でも、他のことをする暇を惜しんで僕にかまってくれるのだと思うと、口元が緩んで仕方がない。
「…………ごめん」
「謝る必要はないけど」
吐息が聞こえそうなほど近くで、子供をあやすように囁 かれる。
低めで、暖かくて穏やかで、けして怒鳴らないこの声が、昔から好きだった。
僕より十歳年上で、中学校の社会科教師。趣味は絵を描くことで、好きな色は青。七月生まれのかに座で、名前は文親 。実年齢より少し上に見られることを気にしている、柔和な面差しの好青年。恋人がいるなんて話は聞いたことがない。
僕の命の恩人で、好きなひとだった。
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