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第三夜

「――よし」  兄さんは満足げに頷くと、人好さのしそうな笑みを浮かべて僕の正面に座り、キャンバスを抱え込んだ。  少し癖のついた前髪がさらりと落ちる。それを億劫そうに払いのける姿がひどくあだっぽかった。  さらさらと、鉛筆の走る音が聞こえ始める。  たれ目気味の優し気な目元が、少しだけ険しさをはらんで僕とキャンバスを交互に見つめた。  宵闇の中を、縦横無尽に舞う蛍。何かから逃れるように、その淡い光を目で追って、気を逸らす。  生ぬるい風が吹き抜けて、ちりん、と風鈴が鳴った。  静かな夜だ。僕の心臓の音が聞こえてしまわないか、心配なぐらい。  僕と兄さんには、血の繋がりがない。一緒に暮らすことになってから、「兄さんと呼んで」と言ってくれた日に、兄弟になった。  僕の義父の、甥っ子だという。早くに両親が他界して、祖父母に引き取られていたそうだ。  僕の母は天涯孤独の身で、母方の祖父母が生きているのかどうかさえわからなかったから、母と弟の死後、僕は施設に送られるのだろうな、と思っていた。  当時の僕は十三歳。  大人や未来に希望なんてなかったけれど、何かに反抗したい、という意思はあったのだと思う。  僕は当時、地獄の底にいて。  みんな、苦しめばいいと思った。  だから、あの日。  ふと目に入った川に、飛び込んだのだ。 『なんで、なんでこんなことを……!』  自分自身も溺れそうにながら僕を救った兄さんは、僕をこの離れで生活させるよう、祖父母と父に掛け合ってくれた。  父は気味の悪いものを見るような眼を僕に向けたけれど、祖父母は寛大で、色々と都合して、家族に加わることを許してくれた。  それ以来、僕はひとり、平屋で二部屋だけの離れに住んでいる。食事は一緒にとることもあったし、一人のこともあった。  母屋で祖父母や兄と暮らすことも提案されたけれど、気を遣うのではないか、と逆に気遣われてしまって、こういう形になった。  父は僕を置いて行方知れず。あの人がいないのなら母屋の土間だって天国に思えるのだけれど、流石に言えなかった。どんな暮らしをしてたんだ、なんて聞かれても困るから。  濡れ縁の向こう側には、森が広がっていて、ささやかな小川がある。ここに一人でいると、外のことが透明な幕を隔てた向こう側の、別の世界の出来事のように思えた。自分だけ取り残されてしまったような。  この住処は、僕にとっての金魚鉢。 「そういえばね、琉」 「何?」  何の気もないふりをして、その言葉を一字一句のがさないように耳を澄ませた。  恐ろしい父の親族は、彼と同じようにみんな、僕のことが嫌いな鬼なのだと思っていた。けれど、実際にはとてもやさしい人たちで、困惑した。なかなか気持ちに折り合いがつけられなくて、たくさん迷惑をかけてしまった。早く自立して恩返しがしたいのだけれど、兄さんも祖父母も、進学しろという。  お金はいずれ同じ額かそれ以上を返せばいい。けれど、僕にかけてくれた時間は、どうしたらいいのだろう。若さは取り戻せないのに。 「俺、八月の終わりに、結婚することになったんだ」  楽園みたいだった金魚鉢の中。  その表面が、ひび割れる音を聞いた。 「――そうなんだ」  僕の、最後の夏が、通り過ぎていく。

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