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第七夜
空に、濃い青と紫が滲む、夏の夕暮れ。夜の訪れを嘆くひぐらしの声は、耳を劈 くようだ。
僕は、気晴らしにとやって来た川辺にせり出た岩の上にしゃがみこんでいた。数十センチ下に広がる川面は、燃え盛る炎のように揺らめいている。視界の端に浴衣の袂がちらつく。
ひとり離れに閉じこもって数日が過ぎた。夏風邪を引いたと嘘をついて、しばらく人に会っていない。
あの日から、兄さんが僕のもとを訪ねてくることはなかった。
あの夜はおかしかったのだ。
僕も、兄さんも。
明日は近所の集会所で老人会と青年会が協力して、小さな夏祭りが行われる。
焼きそば、かき氷、金魚すくい。他に、やぐらの上でカラオケ大会が催されたりする。〆は打ち上げ花火。
今年は、見られないけど。
友達から来た誘いの連絡には、既に断りを入れた。
兄さんが青年会に入っているから。
ひょっとすると、もう二度と、顔を合わせることはないのかもしれない。
当然の流れだと思う。
でも、許されるなら、一つだけ教えて。
どうしてあの夜、あんな風に、僕に触れたの。
ごつごつした岩に腰かけて、足を水につけてみた。冷たい。兄さんの手を思い出す。水がトラウマにならなかったのは、兄さんのおかげ。
「あっ……」
下駄の代わりに履いていたビーチサンダルの右足が脱げて、慌てた。そのまま腰を滑らせて、ざぶん、と落ちる。
そんなに深くはなくて、ちょうどみぞおちが埋まるぐらいで足がついた。
けれど動きづらい浴衣でもたついているうちに、ぷかぷか浮いていたビーチサンダルは瞬く間に見えなくなってしまった。
「……何をやってるんだろうか」
別に素足で帰ってもよかったのに、どうして飛び込んだのだろうか。みじめだ。
早く帰ろう。
兄さんに見られたら、いらぬ心配をかけてしまう。
「――琉⁉ 琉! 何をしてるんだ‼」
そう、こんな風に、大声で叫んで。
「へ?」
目を何度も瞬かせて、疑った。
ざぶざぶと服が濡れるのも構わずにやって来た兄さんが、乱暴に僕の手を掴んだ。
「い、た……!」
「なんで、また、こんな……! 溺れたのを忘れたのか⁉ それとも、わざとか?」
「ち、違うよ」
「何が違うんだ」
兄さんは焦ったような、怒ったような顔をしている。
ああ、こんな時まで、保護者ぶって。
あんなことをしておいて。
気まずいくせに。
僕は兄さんにとって、庇護すべき対象でしかない。それを痛感して、握られた両腕より、心が痛んだ。
「……ごめんね」
何も言い返す気が無くなって、項垂れる。
兄さんが息を呑む気配がする。
しばらく、二人とも無言だった。
「――そんなに、嫌、だったか」
何が。
何となくわかっているのに、そう問おうと、顔を上げる。
次に息を呑んだのは、僕の方だった。
どうして、そんなに苦しそうな顔をしているの。
鼓動がうるさい。ざあざあ、川が流れていく。
そのまま僕の胸の高鳴りごと、どこかへ行ってしまってくれ。
「……嫌じゃ、なかったよ」
喉をついて出た言葉に僕自身が驚いた。
狼狽えながら、兄さんの手から逃れようとして――逆にさっきより強く、顎をとらえられて、失敗、した。
僕と兄さんの影が、重なる。
唇を、ふさがれた。
少しだけかさついた、柔らかな感触が、名残惜しそうに離れていく。
それは――口づけと呼ぶには、あまりにつらくて幼い。
「これも、嫌じゃ、ないか」
兄さんが泣きそうな声で言って、力の抜けた僕の体を抱き寄せた。
「う、ん」
どうして。
ねえ。
どうしてこんなこと、するの。
僕を解放した兄さんは、視線から逃れるような仕草で背後の川岸を振り返る。
帰路は、二人とも無言だった。
問い詰めようとして、でも言えなかった。
日が暮れて、星が出る。
時は嫌応に過ぎていく。
僕の心を、夏の夜に置き去りにして。
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