8 / 9

第八夜

「どうして、祭り、来なかったんだ」  かすかに怒りを滲ませて、兄さんが言う。  今日は、送り盆。祭りの日。時刻は八時過ぎ。宴もたけなわ。  終わりを飾る花火が打ちあがる頃。  どうしてここにいるの。  僕を襖に追い詰つめて、両手を縫い留めた兄さんは、ひどく、苦しそうな顔をしていた。 「大事な話があるって、言ったのに」 「……ごめん。怖くて」  結婚の話。一夜の過ちの話。どちらも、怖い。  僕の言葉をどう解釈したのか、間近にある兄さんの顔がさっと翳った。 「俺が、怖いのか」  何を言ってるの。 「ちが」 「分かってるさ! あんなことをしてしまうぐらい、俺は、おかしいよ」  兄さんが嗚咽を漏らして、僕の肩口に顔をうずめる。  堅めの髪がこそばゆい。やさしい洗剤と、汗の混じった、兄さんの香りがする。  確かに、兄さんはおかしい。  こんなに不安定な人じゃなかった。僕にとって、太陽のような存在で。 「それでも、好きなんだ」  ――何を言ってるの。 「お前が好きだよ、琉」  顔をあげた兄さんの目には、涙が浮かんでいる。僕は、呆然としていた。 「でもお前は、俺を兄としか呼ばない」  当然だよ。  そう自分に言い聞かせないと、勘違いをしてしまいそうになるから。 「……なんで」 「一人にして、おけなくて」 「いつ、から」 「わからない。でもたぶん」  僕を磔にしてきた両手が離れて――僕の首に、添えられた。 「お前をすくったあの日から」  僕が目を瞠るのと同時に、添えた指先に力がこめられる。 「結婚、するくせに?」 「……お前にひどいことをする前に、離れなきゃと思った」 「その人のこと、好きじゃないの」 「……見合いだった」  兄さんは儚く笑った。それは瞬く蛍の光よりも心もとなくて。 「でも結局、諦めきれなくてお前のやさしさに付け込んで、俺は――絵だって、口実だった。最後ぐらい、もっとお前と、一緒にいたくて。でもあまりにつらい。描くほどに、琉を、忘れられなくなる」  心が震えるような告白に、混乱した。 「――だから、ぼくを殺すの」  それならそれでいいかな。なんて思ってしまう。  愚かな人だ。  危険で、不安定で。  僕の、愛しい人。 「兄さんがそうしたいなら、いいよ」 「……琉」 「でもひとつだけ聞いて」  兄さんの頭に、頬に、そっと触れる。 「僕も、兄さんが、好き」  友人に嫉妬した貴方が。  優しくて不器用な貴方が。 「……その場しのぎは、よしてくれ」 「そんなんじゃ」 「だったらなおさら、気の迷いだろ。……指輪を贈ってくれる人が、いるんだろう」  ああ、なんだ。嫉妬は友達にだけじゃなかった。  なんだろう、兄さんが、可愛い。僕は相当、舞い上がっている。 「これ」  不審げな顔の兄さんの腕を、そっと首から離す。  チェーンをぶちりと引きちぎって、指輪ごと、畳においた。 「――なくても、いいんだ」  あなたが望むなら。あなたさえいてくれるなら。  父さんの形見の指輪も、友達も、全部、いらないよ。 「琉……?」 「全部捨てるから。だから――僕は」  ゆっくり顔を近づけて、僕から、触れるだけのキスをした。 「ふみちか、さんが、欲しい」  初めて、名前で呼んだ。  背中に衝撃が走ったのは、その直後のことだった。  余裕のない表情の兄さんが、僕を組み敷いて、のしかかる。  僕の唇に噛みついて、貪って、舌を絡めて、啜る。 「んん、っ、ふ、う……!」  息ができない。卑猥な音に耳を犯される。  兄さんがそういう獣に見えて、少しだけこわくて、逃れようとする。  でも、だめだ。僕を縫いとめた両手が、檻のように、僕を閉じ込めている。 「琉、琉、俺の」  涙を浮かべて目をぎらつかせた兄さんが、うわごとのように言って、僕の浴衣の帯を解く。  肌が露わになったとき、僕は身じろいだ。冷気に驚いたわけじゃない。  身体に、醜い傷跡があるのを、思い出したから。  兄さんは、引き攣れた火傷の――煙草を押し付けられた跡を、何度かなぞって、何も言わなかった。  少し、僕を怯えさせないように、触れ方が優しくなった気がするけれど。  僕は熱に浮かされながら、夏の夜が見せる夢なんじゃないかと怖くなって、必死に兄さんに触れた。  肌が触れ合う。吐息がまじりあう。  死んでもいいと思ってた。  貴方の金魚でいられないなら。  もし僕を引き留めたいなら――貴方の楔を打ち付けて、僕をこの世に繋ぎとめてほしい。  遠くで花火の打ち上る音がする。  家族で、恋人たちで浮足立つ人々の裏側で――僕たちは、男同士で、みだらなことをしている。  蛍火の中。  僕たちは、互いの躰に、溺れ続けた。

ともだちにシェアしよう!