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第14話
「……………うー……んっ……ん?…」
濡らしたタオルで額や首筋を拭いていると、先輩は言葉にならない声をもらした。
眉間にしわを寄せて首を傾けると、重い瞼をもちあげた。
「───あ、ごめんね。目、覚めちゃった?」
本当は寝ているうちに済ませようと思っていたが、どうやら目が覚めてしまったようだ。
「──────帰っ、たんじゃ……?」
そばにいる僕を見て、驚いた表情。
寝起きのかすれた声で尋ねられ、困ってしまったのでとりあえず笑顔ではぐらかす。
もう帰ったって、思ってたよね……
「おいて帰ったりしないよ……心配だったから、勝手に泊まっちゃった。ごめんね」
怒られるかな……帰れって言われるかな……
先輩の反応が怖くて、ごまかすように洗面器にタオルを浸すと、ぎゅっと絞った。
洗面器の中ではねる水音だけが、部屋に響いている。
「汗かいてるから着替えない?手伝うから」
何か言われる前に……と、わざと明るい声を出して、先輩をうながす。
するとそれにこたえて、ベッドから起き上がろうとしてくれたので、ほっとして先輩の体を起こす手伝いをする。
しっかり起き上がったところで、ベッドの下を覗く。2年前はここに部屋着をしまっていたような……
ベッドの下の収納ケースを引き出して、中を物色すると、新しいスウェットが見つかった。
これでいいかな。
そのままベッドに腰を下ろすと、着ている服を脱がせ、絞ったタオルを背中にあてた。
タオルで背中を拭くのに手を添えると、しっとりと汗ばんだ肌の感触を感じる。
こんなに汗をかくほどきついのだと、心配しなければいけないのだと分かっているのに、なぜか胸がドキドキしてしまう。
久しぶりに触れた広い背中には、あの頃と少しも変わらず無駄のない筋肉がついていて、細いばっかりの僕の体とは大違いで……
僕はもともと恋愛には疎いほうだったけど、可愛いなあと思うのは女の子のほうで、男の人を好きになったのは後にも先にも先輩だけだから、男性の体を見たところで、正直なんてことはない。
でも、先輩は別だ。
初めて体を重ねた日だって、服を脱いだ先輩の、アルコールが入って赤みの増した肌を見て、心臓が飛び出るかと思うくらいドキドキした。
友達と一緒に着替えるときや温泉に入るとき……男として生活している以上、それまでにもたくさんの裸を見たことがあったのに、そのどれでも感じたことのないような気持ちの高ぶりを感じたんだ。
それに、事が済んだあと、汗だくの胸にぎゅっと抱きしめられるのも好きで。
先輩の鼓動を早くしたのが、汗をかくほど夢中にさせたのが僕だと思うと、信じられないほど満たされるんだ…
そんな昔のことをぼんやりと思い出しながら手を動かしていると、先輩がぽつりと言った。
「───こんなとこに来て……泊まって……恋人が嫉妬するんじゃないか?」
……………え?
一瞬、何を言われたのかがよく分からなくて、返事ができなかった。
『恋人』
『嫉妬する』
そう、言ったよね…?
『こんなとこ』っていうのは、ここ……先輩の家のことでしょ。
『自分の家に泊まったら、恋人が嫉妬するんじゃないか』って、心配してくれる……ってことはつまり、僕には他に恋人がいると……思ってるってこと?
僕には、先輩以外の『恋人』がいると思ってるなら……それってつまり、先輩はもう、その『恋人』ではない…ということだよね。
少し考えたあと……タオルをもった手を止めて、返事をした。
「……恋人なんていないよ」
返事をしたあと、自分で言った言葉に苦しくなって、少し口唇をかむ。
僕には先輩以外いない。
だからもし、先輩が僕を恋人ではないと思っているなら、僕には恋人なんていないってことだ。
……やっぱり僕はもう、先輩の恋人じゃないんだなあ……
うすうすわかっていたことなのに、改めてはっきりと言葉にされると苦しい。
こんなに好きなのに、僕の気持ちは一方通行で……
じゃあ、恋人ではなくなったのなら、先輩にとって僕は何なのだろう?
ただの後輩?
でも僕にとっては、先輩は『ただの先輩』じゃない……僕にとって先輩は……
「でも、気になる人はいるよ」
恋人と言ってはいけないのなら……しいて言うなら……『気になる人』、ってところなのかな……
何をしていても……どんなに離れていても……気になって仕方がない人……それが僕にとっての先輩だ。
それに……
──もう僕は恋人ではない。
それははっきりしたけれど、でも……こうして熱が出て苦しいときには、僕のことを思い出してくれたんだよね。
看病してほしいって、僕を頼ってくれたんだよね。
それって、少しは僕のこと……気にしてくれている、ってことなんじゃないのかな?
……それなら。
「……もう少しで振り向いてもらえるかもしれないんだ」
……迷惑をかけるわけではないし、そう思っていても、いいんじゃないかなって。
そう前向きに思うくらい、許してもらえるよね…?
背中を拭き終わって、今度は前に回って胸元をふく。
先輩と向かい合うと、何だか照れてしまって顔が赤くなるのを感じる。
「……そうか。うまくいくといいな」
……うん。
だから、お願い。僕のこと、少しでいいから好きになって……
そんな願いをこめながら、もう一度洗面器にタオルを浸すと、ぎゅっと絞った。
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