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第7話

驚いて後ろを振り返ると、俺の服を掴んだままうつむいている葵……下を向いているし、眼鏡が邪魔をして表情がうかがえない。 一体どうしたんだ? 声をかけようとした俺よりも早く、葵が口を開いた。 「……今から、先輩の部屋に、行ってもいい?」 ……どきっとした。 あまりにもびっくりしすぎて、心臓が飛び出るんじゃないかと思った。 俺の心の声が聞こえていたのかと疑いたくなるくらい、葵が同じことを考えていたからだ。 考えていることが一緒なのは嬉しいが、言葉が出てこない。一体、何て返事をしたらいいんだろう…… 確かに、部屋に来てほしいと思っていたし、そうしてくれたら嬉しいとも思っていた。 でも、今二人で部屋にいたら理性を保っていられない。絶対に葵を傷つけてしまう。 最低だと、嫌われてしまうかもしれない。 ───それだけは絶対避けたいんだ。 コートを掴む葵の手をそっと引き離すと、くるっと振り返って葵と向き合う。 葵の肩がぴくりと震えたが、目線は下を向いたままだ。 「……だめだ」 本心とは違うけれど、さっき決めたことを口にする……葵のために。 「今日は平日だし、明日は仕事じゃないのか?お前んちまでは、めちゃくちゃ乗り継ぎ悪いんだから、うちに寄ってたら帰るの遅くなるぞ」 「……………」 「病み上がりなんだし……段々冷えてきてるから、今より遅い時間になればもっと寒くなる。風邪、ぶり返したら困るだろ?」 「……………」 「ちょっと早いかもしれないけど、今のうちに帰ったほうがいい」 「……………」 「………葵?」 さっきから一言も返事をしない葵のことが気になって、顔を覗き込もうとした瞬間、葵が顔を上げた。 「───先輩のばか!鈍感!」 そう、普段の葵からは想像もできないほど大きな声で怒鳴ると、手に持っていた大きなトートバッグを俺に押し付けた。 そのまま俺に背を向けると、さよならも言わずに駅のほうへ歩き始めた。 「……何だよ」 何でそんなに怒るんだよ。 馬鹿って……鈍感って……それはいくらなんでも、あんまりじゃねーの? 確かにさ、長谷川みたいに気遣いのできるようなタイプじゃあないって、自覚はある。 それでも俺は俺なりにいろいろ考えたし、ベストな選択をしたつもりだったけど……それが間違ってるっていうことか? 正直、納得がいかないまま、押し付けられたバッグに目を落とす。 無意識に中を覗いて……で、分かった。 ───俺はどうしようもなく馬鹿で、鈍感だ。 「───葵!」 後ろから名前を呼ぶが、葵の足は止まらない。 慌てて、後を追いかける……このまま帰してたまるかよ。 葵が持ってきたバッグの中身は、スウェットの上下にシャツにセーター、洗面道具に……替えの下着。 ───俺の家に泊まるための、お泊まりセットだった。

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