126 / 243

第4話

「………あ、あの………あのね…」 「え…っと……あれ?……今日、会う約束はしてないよな?」 「………うん」 「だよな……してないよな………まいったな……」 「……………」 困った顔でそう言った先輩は、右手でがしがしと頭をかいた。 ───やっぱり、急に来るなんてマナー違反だった? もし先輩がこんなふうに急に僕の家にやって来たとしても、僕は嬉しい。 約束してなかったのに、会える日じゃなかったのに、一緒にいられるなんてすごくラッキーだ、って思う。 だからこうして家を訪ねることに、何のためらいもなかったんだ。 でも、先輩はそうじゃないみたい……でも、そんなの、よく考えたら当然だ。 恋人だからって、何もかも同じ気持ちでいるなんてこと、あるわけない。 先輩よりも僕のほうがずっとずっと「好き」なんだから、先輩も僕と同じように「いつでも会いに来てほしい」なんて、思っているはずがないんだ。 そんな当たり前のことに、ようやく気づいて……何だか寂しいような、苦しいような気持ちになって……もう、チョコを渡すどころじゃない。 ───帰ろう。 これ以上、先輩に迷惑をかけたくない。 ぐっと口唇を噛んで気持ちを抑えこむと、そっと一歩後ろに下がった。 『ごめんなさい、もう帰ります』と……そう言おうと口を開いたとき、先輩が僕より先に尋ねてきた。 「葵、今、仕事帰りだよな?まだ、メシ、食ってないんじゃねーの?」 「え?……うん。職場からまっすぐここに来たから…」 ……ご飯? 今、夕食のことなんて、どうでもいいんだけれど… 「だよなー……この時間ならそうだよなー……まいったなあ…」 先輩は、またがしがしと頭をかく……一体何が「まいった」なの? 僕、それどころじゃあないんだけれど…… 「葵が来るなんて思ってもなかったからさ……今、買ってきた弁当食べたとこなんだよ……お前、腹減ってるだろ?コンビニにでも、何か買いに行くか?」 「へ?………ううん、もう夜遅いし……いいよ」 「だよなー……いつものラーメン屋も、そろそろ閉まるだろうしなあ……来るって分かってたなら、二人分買ったんだけど…」 しまったなぁ……って顔をして、先輩はため息をついた。 いや、でも……僕きっと緊張しすぎて、今は何にも食べられないと思うし… 「ご飯は食べなくても大丈夫……あんまり、おなかすいてないから……」 「いや、ダメだろっ。1日働いてたんだし、ちゃんと食わねーと……確か、カップ麺ぐらいなら買い置きがあったはずだけど…」 そう言って僕の手を掴むと「とりあえず寒いから、中入れよ」と玄関の中に引き入れた。 先輩はすたすたと部屋へ入って行くけれど……僕は玄関に立ったまま。 中に入っていいのかな……迷惑、じゃ…ないのかな… 靴も脱げないまま立ちつくしてしまった僕。 ……どうしよう……やっぱり、帰ろうかな… そうやってもたもたしているうちに、カップ麺を手にした先輩が玄関に戻ってきた。 「やっぱ、一個だけ買い置きが残ってたわ。今、湯を沸かしてるから───って、お前、そこで何してんの?早く上がれば?」 ドアの前に立ったままの僕を見て、先輩はびっくりした様子で言った。 「………でも…」 「でも?」 「僕、上がっていいの?」 邪魔じゃない? 迷惑かけてない? 本当は、帰ってほしいんじゃない? 不安で不安でしかたなくて……確かめたくて仕方がないんだ。 「上がっていいのって……お前、玄関でラーメン食うつもりなの?」 「……………」 「あー…やっぱり、外に食べに行きたかった、とか?」 「………ううん、違う」 「何だよ、変なやつだなあ―――ほら、早く来いよ」 先輩は僕のそばまで来ると、わしゃわしゃと頭を撫でた。それから、今日も巻いている先輩からもらったマフラーの端を掴んで、くいくいっと引っ張ると……柔らかく微笑んだ。 ─────あ……何だか、嬉しそう… マフラーを巻いている……ただそれだけのことなのに、すごく嬉しそうに……すごく幸せそうに笑うから…… そんな先輩の表情に背中を押されて…僕はようやく靴を脱ぎ、部屋に上がることができた。

ともだちにシェアしよう!