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旅する 第1話
今回のお話は、視点がくるくると主要登場人物である4人の間で動きます。
分かりにくいところもあるかもしれませんが、ご了承ください。
「先輩、あのね…」
「ん?」
風呂から上がって部屋でくつろいでいた俺にお茶を渡し、テーブルの反対側に座ると、葵が神妙な顔で話を切り出した。
3月に入って仕事が忙しくなると、生活に余裕がなくなってしまうのは毎年のことだ。
家と会社の往復。とにかくピークを越えるまでの辛抱……なのだが、やっぱりどうしても息抜きがしたい。疲れた身体には癒しが必要ということで、忙しい合間をぬって葵の部屋に泊まりに来ていた夜のことだった。
……何だかやけに緊張している。というか、不安げだ。
何だ?何か俺、したか?
このところ忙しくはあるが、二人の関係は落ち着いていると思っていた。
葵の実家に挨拶はできたし、年末年始は一緒に過ごして、より関係は深まっているし……最近は屈託のない笑顔を見せてくれることも増えた。
それに、まあ、夜の生活もお互い満足していると思ってるんだけど?
「……あの、僕の職場って、商業ビルのテナントの一つなんだけどね」
「ああ、知ってる」
「見た目はきれいなんだけど、結構古くて、電気のトラブルとか水漏れとか……最近ちょこちょことトラブルがあるんだ」
「へえ…」
葵の働く書店は駅前のビルの2階に入っているが、ビル全体を見ると女性向けのショップが多く入っていて、一見して華やかだ。古いっていう印象はなかったが、内部はそうでもないってことか。
「それでね、他のテナントからも苦情が出ていたみたいで…ビルのオーナーさんがとうとう、問題のある場所を一斉に直すことにしたんだって」
「へー」
まあ、最近は各地で駅前の再開発も進みつつあるし、苦情を放っておいたらテナントも離れていってしまうといったところか……オーナーにしてみれば頭の痛い問題だったんだろう。
「でね、電気系統の点検と工事に水道設備でしょ……化粧室とかも改装するんだって」
「ふーん。女性向けの店、多いしな。トイレは大事ってことか……でも、そうなると結構大掛かりだな」
「うん……それでね、4月の中旬に1週間、ビルを閉鎖することになったんだ」
なるほど。
まあ、どうせ工事するんだったら短期間に集中してってことか。
中途半端にビルを開けずにきっちり閉めて、再開するときに『リニューアルオープン』を大々的に打ち出そうって戦略かな……ゴールデンウィーク前に話題になれば、その後の集客にもプラスになるって見込みだろう。
「工事の間、店はどうすんだ?」
「えーとね……木曜日から次の週の水曜日までビルは閉まるんだけど、テナントの店員は入れるから、再オープンに向けていろいろ準備していくみたい。うちの書店も企画コーナーを変えたりとか棚の移動をしたりとかするんだって」
「なるほどね。客がいないうちに、大改造ってか。忙しそうだな」
書店員の仕事が本当に大好きな葵のことだから、張り切って働くんだろうな。頑張りすぎて疲れとか、溜め込まなけりゃいいけど。結構無理するんだよ、こいつは。
そんな心配をしていると、急に葵の声が小さくなった。
「……うん。それでね……工事の都合でね……どうしても3日間は、テナントの店員も立ち入りができなくなっちゃうんだって…」
「へー。んじゃ、その間は休みか?」
「そう……他店に手伝いに行くって案も出たらしいんだけど、店長がせっかくだから休みにしてくれるよう、上に交渉してくれたんだって…」
「そりゃー、よかったな。まとまった休みがとれるなんて、ラッキーだな」
飛び飛びで休みをとることが多い職場だ。年末年始でもないのにまとまった休みがとれるなんて、本当に珍しい。
せっかくの機会だから、のんびり過ごしたり、いつもはできないことをしたり……有意義に過ごせればいいんじゃないか。
「で、1週間のうち、いつ頃休めるんだ?」
「……………」
「葵?」
「………土曜日から月曜日までの、3日間」
葵は一瞬ためらったあと、意を決したように、休みの日程を俺に告げた。
──土曜日から月曜日までの、3日間。
その葵の言葉は、放たれた途端、俺の頭の中をいっぱいに支配した。
カレンダー通りに休みがくる俺と、平日を中心に不定期に休みがくる葵。
葵が就職してからというもの、休みが重なる日は悲劇的に少なく、連続して重なることなんてほとんど皆無だった。
それがこうして、休みの重なってくれる日が来るとは…!
「………あのー……それでね……」
その週の俺の休みは土日の2日間だ。休日出勤でもない限り、暦通りに休めるはず。
そうなると、葵の3日間の休みのうち、2日間は一緒に過ごせるってことになる。
2日間あれば、いろいろ計画が立てられるぞ。
「………せっかく、お休みだしね……」
近場だったら、日帰りで出かけることもできるな。俺、車は持っていないが、レンタカーを借りてもいい。
いやいや、葵は次の日も休みだ。
ならいっそのこと、旅行に出かけるのもいいだろう。テーマパークに連れていくとか……パワースポットでも巡ってみるとか……
「………あの……先輩が…よければ、なんだけど……」
まてよ。
二人で過ごすんだったら、あえて俺の部屋に2日間、連れ込むか?
一歩も外に出ず、誰とも会わず、ずっと二人だけで過ごす……みたいな。
そういう濃密な過ごし方は俺的にはいいけれど、なかなか連休のとれない葵にとっては、もったいない時間の使い方か…?
「………ねえ…………先輩…?」
そうだよな。せっかくの休みなんだから、葵のために使いたいし、葵の願いを叶えてやりたい。
……そういえば、あそこに……
「───先輩!」
「………んっ……あ…悪い、何か言ったか?」
しまった。
考え事をしていたら、思わず葵のことを放っておいてしまった。
慌てて葵の方を向くと……ん?眉が下がっている…
「………僕……お風呂に入ってきます……」
聞こえるか聞こえないかの小さい声で俺に伝えると、葵は部屋を出て行った。休みがもらえるっていう嬉しい話をしていたのに、何であんなにしょんぼりしてんだ?
首をかしげるが、よく分からない。
まあ、いいか。葵が風呂に入っている間に、俺にはすべきことがある。
よし、と立ち上がると、部屋の隅に置かれた本棚に向かう。ずらりと並んだ本は、読書家の葵らしく驚くほどの冊数だ。
……たしか、このへんにあったはず。一度暇を持て余したときに、この本棚の本を漁って……で、見つけたんだ、アレを。
記憶をたどって、一番下の段の並んでいる雑誌をチェックしていくと……あった。
付箋がたくさん貼られた一冊の雑誌を抜き取ると、こっそりと持ってきていた自分のバッグにしまう。
よし。これで準備できるぞ……
来月のことを考えると、思わず顔がにやけてしまって仕方がなかった。
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