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第5話

───え?どうしちゃったの? 何が起こったのか分からなくて、どうしてこんなことになっているのか分からなくて、僕は一人困惑している。 「……………」 先輩、怒ってしまったのかな? ぴしゃりと閉まったドアは、しばらく待ってみても開かない……きっと僕をここに置いたまま、一人で寝てしまったのだろう。 ……こんなこと、再会してから今まで、一度もなかった。 久しぶりに会った先輩はなんだかとても優しくて、昔より僕を撫でてくれて、寝るときはいつも一緒にベッドに入った。それから、「寒くないか?」って心配してくれて、何度も毛布を掛け直してくれて……何だかくすぐったくなるくらい僕を甘やかしてくれた。 でも、今夜は違う。 「もういい」って……「もう寝る」って……僕は置いてけぼりだ。 一人になった部屋が急に冷え込んできたように思えて、何だか涙がにじんできた。 僕、また怒らせちゃったのかな…? 何か、悪いことしちゃったのかな…? どうしてうまくいかないんだろう……どうしてうまくふるまえないんだろう……先輩にとって特別な人に、特別な存在になりたいって思っているのに。 先輩が求めている正解が分からない……分からないからきっと、僕はダメなんだ。 「………先輩……」 涙まじりの消えそうな声なんて、届くはずもない。 自分の家なのに、一人ぼっちの部屋は居心地が悪くて、思わず目を伏せて……で、気づいた。 テーブルの下にこっそり置かれていた、数枚のコピー用紙に。 「………??何これ?」 部屋の主である僕に見覚えがないということは、きっと先輩が今日置いたものなのだろう。 こんなことしたらマナー違反だと思ってはいるけれど、今の苦しい状況に耐えかねて思わず、畳まれていた紙を開いて中を見た。 「………え?」 それは、1軒の温泉旅館のホームページをプリントアウトしたものだった。 和風モダンな客室の写真に間取り図。夕食の懐石料理のサンプル写真に温泉の効能。旅館周辺の地図。 ………あれ?この写真……前に見たことがある気がする…… 不思議に思って、部屋の隅に置いてある本棚を覗く……確か以前買った旅行雑誌がここにあったはず。 手にとってページをめくると。 「………あった」 先輩が持ってきた紙に載っていた写真を見つけた。『離れの宿翡翠』───いつか行ってみたくて、思わず付箋をつけていたページにその写真はあった。 旅行雑誌を持ったままテーブルに戻って、二つを比べてみる。 やっぱりおんなじ写真……旅館の名前も一緒……そうやって改めて紙を見直して、で、気づいた。 コピー用紙の端っこ、宿の電話番号の横に書かれた、赤いボールペンの文字。 『予約完了』 それは紛れもなく先輩が書いた文字だった。 一緒に温泉に行きたいなんて、一度も言ったことはない。 この旅館に泊まるのがあこがれだなんて、一度も話したことはない。 ……そういうの、わがままだって思ってたから。 でも…… 『……この間言ってた、休みのことだけどさ…』 『お前は俺と一緒にいなくても平気なんだな!』 『───俺一人張り切って、馬鹿みたいだ』 頭の中で繰り返される先輩の言葉。 先輩はちゃんと、僕のしたいことを分かってくれていた。 僕がどこに行きたいのか知ってて、準備をしてくれてた。 僕を喜ばそうと、頑張ってくれていた。 それなのに僕は……自分の気持ちは隠したまま『一人でも平気』だなんて嘘ついて、先輩の気持ちを台無しにしちゃったんだ。 最悪だ…… もう、だめだ…… こんなの許してもらえない。 だって先輩は『もういい』って言った……きっとこんな僕のことなんて、もう嫌いになったに違いないんだ。 『………俺、もうこれ以上付き合えねーわ』 「………っ!」 以前、先輩から言われた一言が頭をよぎった。 ……僕はもう、いらないんだ。 胸がえぐれてしまうかと思うほど苦しくて……息がしにくくて……どうしたらいいのか分からなくて…… 僕はふらふらと立ち上がって歩き出した。

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