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第9話

取り掛かっていた仕事があらかた片付いたところで、壁にかかった時計を見る。 16時50分。あと少しで退社時刻だ。 隣のデスクの田中の様子を窺うと、プリントアウトした書類を黙々とファイリングしている。焦った様子もないから、こちらも同じく定時上がりができそうなのだろう。 「田中、仕事のめどはついたのか?」 「なんとかな。残業も休日出勤もなさそうだ。明日は無事に出発できるな」 田中はほっとした表情で息をはいた。 明日はいよいよ旅行当日。お互い仕事を気にすることなく出発できそうだ。 あれから葵君に会った悠希が言うには、葵君も4人で出かけるのを素直に喜んでいるよう……俺と悠希にとっても初めての旅行になるし、何だかんだで楽しみだ。 「お前、今日は葵くんの家に泊まるんだって?」 「ああ。あいつ今日まで仕事だったけど、店自体は閉まってて客は来ないからな。5時には帰れるらしくて、ここんとこ毎日メシ作ってくれてんだ」 「ふーん」 「で、今日は泊まって、そのまま一緒に出発する予定。明日は葵の家の近くの駅で待ち合わせでいいんだよな?」 「ああ。悠希は明日どうしても、朝1限にある講義に出なきゃいけないらしくてさ。お前らを拾ってから大学に迎えに行って、そこから出発するから」 「……近頃の大学生は忙しいんだな。俺らの頃とは大違いだな」 苦笑しながら田中は言ったが、まあ、悠希が真面目な学生で、講義をさぼりたくないというのもあると思う。 何でも土曜日にしかこれない外部の講師が行う講義なんだそうで…どうしても受講したいらしい。まあ、その講義も10時半には終わるらしいから、たいした時間のロスにはならないだろう。 そんなことを話しているうちに、時計の針は進み、いよいよ17時をさすところ。 帰って悠希と一緒に旅行の準備をしなくちゃな……と思ったときだった。 「何やってんだ!!こんなミス、ありえないぞ!!」 「す、すみません!」 課長の大きな叱責の声がフロアに響いて、にわかに部屋の空気が緊張する。 声のする方に目を向けると、入社3年目の女性社員が課長の前でひたすら頭を下げていた。 普段は温厚なうちの課長があんなに激昂するなんて、本当に珍しい… 「……何だ?何かやらかしたのかな、松野さん」 「課長のあの様子からすると、ちょっとやっかいそうだな…」 「今、彼女が担当してる仕事って、この前までお前が担当してなかったか…?」 田中は顔をしかめて「ああ」と返事をすると、「結構大口の取引相手だからな……こじれたら大変だけどな……」とつぶやいた。 気づけば17時をとうに過ぎているが、課内のピリピリした雰囲気に退社するタイミングが掴めない。 困惑していると、課長が険しい表情のままこちらを向いて声をかけた。 「田中!ちょっとこっち来てくれ!」 「はい」 呼ばれた田中はすくっと立ち上がると、急いで課長のもとに向かった。 しばらく三人の間でやり取りをしたあと、課長のもとから自分のデスクに戻ってきた田中の表情は険しかった。 椅子に座ると、退社するために片付けていた机の上に次々と書類やファイルを出していく。 「……どうした?何か、しくじったのか?」 「俺じゃなくて、あいつがな」 田中がちらりと目を向けたほうを見ると、あいつ……松野さんが課長の前でめそめそと泣いている。 泣いたところでミスは取り消せないし、事態は何も変わらないのだが、それがいまいち分かっていないようだ。課長も呆れ気味の様子。 「詳しいことは省くが、取引相手に送る書類を取り違えたんだってさ。違う会社に送る予定のものと入れ違えて…で、その書類の内容や提示されてる見積額と自分とことの取引内容と比べて憤慨。猛クレームと取引内容の変更を要求してきたってわけ」 「……それはまた、初歩的なミスで」 「今から二人で関係各所に謝罪に回るらしいけど、松野はあの調子だし……相手側は明日までに新しい見積の提案を要求してるらしいから、とりあえずあの会社と仕事をしてた俺に白羽の矢がたったみたいな?」 「ってことは、お前が代わりに見積書作るわけ?」 「そ」 「明日までって、今日金曜だぞ?」 「相手の会社は土曜も営業してんだよ。こっちのミスなのに『うちは土曜は休みです』なんて言えないだろ。何とか今日中に仕上げないとな」 「でも、これお前の仕事じゃないだろ!?」 明日出発なんだぞ……葵君も悠希もすごく楽しみにしてるってのに、なんて面倒な仕事引き受けてきたんだよ! すると、田中は引き出しから取り出していた名刺の収納ファイルで、俺の頭をポンと叩いた。 「社会人何年やってんだよ。もっと不条理で理不尽なことなんていっぱいあったし、同じ社内で起こったトラブルなら、みんなでフォローしなくちゃだろ」 そんなごもっともな意見を言うと、ファイルをめくって名刺を探しはじめる。 ……何だよ、いつもは葵君のこととなるとガキくさいことばかりしてるクセにな。こういうとこ、あの子にも見せてやればいいのに。 「……俺も手伝うよ。何したらいい?」 「手伝いはいらない。お前は先に帰れよ。まだ取り掛かったばかりだけど、いつ帰れるか分からねー……終電間に合わない可能性もありだからな」 「だったらなおさら、手伝ったほうがいいだろ……休日出勤するわけにはいかないんだし」 「バカだな。だから『なおさら』、帰った方がいいんだろ。明日は旅館まで車で移動するんだろーが。運転できるやつが二人とも寝不足でいねむり、なんてシャレにもなんねーよ。お前は早く帰って明日のためにさっさと寝ろ」 田中はファイルから目を放すと「高瀬君とイチャイチャは禁止だからな!」とニヤッと笑った。 くそ。 ちょっと男前に見えてしまったぞ、田中なのに! 確かに、明日予定通りに旅行するためには田中の言っている通りにするのがベストな気がする。 でも、何だかさ……そういうの心苦しいだろ。 だから… 「分かった。俺は帰るけれど、その前に夕食買ってきてやるよ……その位はしてもいいだろ?」 「おう。頼むよ」 シャットダウンしていたパソコンをもう一度起動させて書類を作りはじめた田中は、こちらを見ずに「んじゃ、カツ丼な」と言った。 財布を取り出してコンビニに向かう前に、ふと思い出して田中に声をかける。 「お前、忘れずに葵君に連絡しろよ。メシ作って待っててくれる約束なんだろ?」 俺の言葉に、田中は顔を上げると「おう」と返事した。 その顔はさっきのイケメンぶりはどこへやら……情けない表情で、何だか笑えた。

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