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第27話

泣いているのだと思っていた。 涙腺が弱くてしょっちゅう泣いているし。俺の考えなしの行動でこれまで何度も泣かしてしまったし。きっと今もそうだと思っていた。 でも、葵は泣いてない。瞳を潤ませてもいない。 俺が思っていたほど、落ちこんでいないってことなのか?何だか拍子抜けしてしまう。 「……葵。そろそろ帰ろう。もうすぐ夕食の時間だ」 思わず考えていた謝罪の言葉が引っ込んで、とりあえず部屋へと戻るよう促す言葉が口をついた。夕食は母屋でとることになっていて、そろそろ会場が開く時間だから。 すると葵はふるふると首を横に振った。 「僕、お腹すいてないからいい。3人で先に行ってください」 ……素直に「うん」と言うのかと思ったが、拒否されてしまった。 「『先に』って……お前、ここの料理、楽しみにしてただろ?腹がへってなくたって、少しでいいから食べればいいじゃないか」 旅行が決まってからというもの、持っていた雑誌を眺めたり、宿のホームページを見たり……葵が今日という日を楽しみにしていたことは知っている。温泉も、部屋も、もちろん料理も。 「……今行って、何にも箸をつけなかったら失礼だし、後から一人で食べに行くから、先に行って…」 もう一度首を横に振り、葵は縁台から立ち上がろうとしなかった。 いつも。 いつも、いつも、葵は俺の顔色を窺って行動してきた。 俺に嫌われないように。俺に迷惑にならないように。こいつの価値判断の基準はいつも「俺の機嫌」で……だからこそ、それが分かっていたからこそ、別れたほうが葵にとって幸せなんだと考えるに至ったのだが……でも、今は違う。 今は、自分の意思で俺を拒んでいる。 それが自分の愚かな行いのせいだと分かっているのに、胸が苦しい。 「分かった。じゃあ、俺も食べない」 そう言って、葵の横に腰を下ろした。 葵の身体がびくりと震えて、無意識に俺から距離をとった。その仕種に、さらに胸が苦しくなる。 「だめだよ。先輩はお腹空いてるでしょ?ちゃんと食べに行ってよ」 「嫌だ。お前が一緒に行かないなら、俺も行かない」 葵は慌てて俺を説得しようとするが、俺だってここは譲れない。 ……もし、今、ここで部屋に戻ったら、俺はもう二度と葵と一緒に食事ができなくなる。 食事だけじゃない。それどころか、二度と一緒にいられなくなる。いくら鈍感な俺にだって、その位は分かった。 「……何で、そんな……」 困惑し、困り切った声を出すと、葵はため息をついた。 ……『何で』って、お前が好きだからだよ。 お前のことが好きで好きで、失いたくないからだよ。 『別れたい』なんて嘘で、本当はずっと一緒にいたいと思ってるんだ。 そう、言うつもりで葵の方を向くと、ちょうど葵も俺の方に身体を向けていた。そして、俺が口を開くよりも早く、話し始めた。 「僕ね、やっぱり先輩のことが好き」 「……………」 「離れているときも、一緒にいるときも、ずっとずっと僕の一番は先輩だった。きっと、これ以上の想いで、人を好きになることなんてできないと思う」 「………あ……ああ…」 「僕ね、一番好きな人にはちゃんと幸せでいて欲しいんだ……悩んだり、困ったりしないで、いつでも笑っていて欲しい……だからね」 「……………」 「僕、先輩とお別れします」 そう言うと葵は、俺に向かって微笑んだ。 それは、これまで見たどの笑顔よりも美しい、一番きれいな笑顔だった。

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