159 / 243
第28話
ふわりと微笑んだ顔。そこに迷いは、少しもなかった。
……ああ、葵の心は決まったのだ。
俺と、別れる。別れて別々の道を歩く。
俺の言葉を受け止めて、自分で結論を出した。だから、涙を浮かべることもなかったんだ……もう、心は決まっていたから。
「……………」
そうか、これで終わりなのか。
葵がまっすぐな目で俺を見るから……葵の真摯な想いが、それが意味する未来が、鈍い俺にもちゃんと分かった。
そうか。もう、目が覚めたら、葵が横にいることもないんだな。
俺の身体にくっついて、気持ちよさそうに眠る顔を見ることも、すうすうというあの寝息を聞くこともないんだ。
髪を乾かしてる間、猫みたいに目を細めている顔も、もう見れない。
遠慮がちに俺にくっつきながら、こたつの中で手をつなぐことも……
たかがプリン1個で、子どもみたいにぴっかぴかの笑顔を見せてくれることも……
一緒にメシを食うことも……一緒に風呂に入ることも……テレビを見ながら二人で馬鹿みたいに笑うことも……その日あった何でもない出来事を話すことも……
もう、できないんだ。
もう、できなくなったんだ。
俺がそれを望んだから。
葵がそれを受け止めたから。
「……先輩?」
思わずぼんやりしていたらしい。葵の怪訝そうな声が聞こえた。
「……先輩……大丈夫?」
そう言って葵は、俺より一回り小さな手のひらを俺の頬に当てた。
『大丈夫?』って、どういう意味だ?
葵と同じように手のひらを自分の頬に当てると、何故か濡れた感触がした。
「……………何だ、これ……?」
……これ……涙?
自分でも気づかないうちに、どうやら俺は泣いていたようだった。
……何だ。どうしたんだ、俺。
浴衣の袖でごしごしと瞼をこするが、涙は後から後からでてくるようで、止まらない。
これまで何度も葵を泣かせてきたけれど、自分が泣くのは初めてで……どうしたっていうんだ、俺。
一人慌てていると、葵が不思議そうな顔で、俺に尋ねる。
「どうして、先輩が泣くの?」
「………どう、してって……」
「だって、別れたいって言ったのは先輩だよ?願いが叶ったのに、何で泣くの?」
そう言って、葵は首をかしげた。
……そうだ。
別れたいって言ったのは……言い出したのは俺だ。俺だけど……
「……だって、もうお前と会えなくなる……こうして触れることも、できなく…なる……」
そうっと手を伸ばして、今度は俺が葵の頬を触る。
ひんやりと冷たい感触……長い間外にいるからだろう。葵の頬はすっかり冷たくなってしまっていた。
いつもは子どもみたいに体温が高くて、ぽかぽかしてるのに。
俺に触られると真っ赤になって、手のひらをぱたぱたと振っては、火照った顔を冷やそうとするのに。
……この冷たさが、最後の記憶になるんだ。
これからはもう、触れることはできない。
俺じゃない他の誰かが、この冷たい頬を温めてやるんだ……俺じゃない、他の誰かが。
「……もう……一緒に、は……………もう…………苦しい……」
胸が、引き裂かれそうだ。
いや、いっそ引き裂かれてしまえばいい。そうすればこの胸の痛みも、きっと分からなくなるのに。
涙は止まらない。胸の痛みも治まらない。
きっとこれから先、ずっとこうして葵のことを引きずりながら生きていくんだ……俺は……
自分でしでかしたことだというのに、目の前には絶望しか見えず、その現実から背けるようにして目を伏せている俺の手に、また濡れた感触がした。
葵の頬に触れたままの右手に。
「………僕も……僕も……………苦しい……」
葵の震える声に、伏せていた顔を思わず上げる。
目の前に座る葵の目からは、涙が零れ落ちていた。
ともだちにシェアしよう!