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第28話

ふわりと微笑んだ顔。そこに迷いは、少しもなかった。 ……ああ、葵の心は決まったのだ。 俺と、別れる。別れて別々の道を歩く。 俺の言葉を受け止めて、自分で結論を出した。だから、涙を浮かべることもなかったんだ……もう、心は決まっていたから。 「……………」 そうか、これで終わりなのか。 葵がまっすぐな目で俺を見るから……葵の真摯な想いが、それが意味する未来が、鈍い俺にもちゃんと分かった。 そうか。もう、目が覚めたら、葵が横にいることもないんだな。 俺の身体にくっついて、気持ちよさそうに眠る顔を見ることも、すうすうというあの寝息を聞くこともないんだ。 髪を乾かしてる間、猫みたいに目を細めている顔も、もう見れない。 遠慮がちに俺にくっつきながら、こたつの中で手をつなぐことも…… たかがプリン1個で、子どもみたいにぴっかぴかの笑顔を見せてくれることも…… 一緒にメシを食うことも……一緒に風呂に入ることも……テレビを見ながら二人で馬鹿みたいに笑うことも……その日あった何でもない出来事を話すことも…… もう、できないんだ。 もう、できなくなったんだ。 俺がそれを望んだから。 葵がそれを受け止めたから。 「……先輩?」 思わずぼんやりしていたらしい。葵の怪訝そうな声が聞こえた。 「……先輩……大丈夫?」 そう言って葵は、俺より一回り小さな手のひらを俺の頬に当てた。 『大丈夫?』って、どういう意味だ? 葵と同じように手のひらを自分の頬に当てると、何故か濡れた感触がした。 「……………何だ、これ……?」 ……これ……涙? 自分でも気づかないうちに、どうやら俺は泣いていたようだった。 ……何だ。どうしたんだ、俺。 浴衣の袖でごしごしと瞼をこするが、涙は後から後からでてくるようで、止まらない。 これまで何度も葵を泣かせてきたけれど、自分が泣くのは初めてで……どうしたっていうんだ、俺。 一人慌てていると、葵が不思議そうな顔で、俺に尋ねる。 「どうして、先輩が泣くの?」 「………どう、してって……」 「だって、別れたいって言ったのは先輩だよ?願いが叶ったのに、何で泣くの?」 そう言って、葵は首をかしげた。 ……そうだ。 別れたいって言ったのは……言い出したのは俺だ。俺だけど…… 「……だって、もうお前と会えなくなる……こうして触れることも、できなく…なる……」 そうっと手を伸ばして、今度は俺が葵の頬を触る。 ひんやりと冷たい感触……長い間外にいるからだろう。葵の頬はすっかり冷たくなってしまっていた。 いつもは子どもみたいに体温が高くて、ぽかぽかしてるのに。 俺に触られると真っ赤になって、手のひらをぱたぱたと振っては、火照った顔を冷やそうとするのに。 ……この冷たさが、最後の記憶になるんだ。 これからはもう、触れることはできない。 俺じゃない他の誰かが、この冷たい頬を温めてやるんだ……俺じゃない、他の誰かが。 「……もう……一緒に、は……………もう…………苦しい……」 胸が、引き裂かれそうだ。 いや、いっそ引き裂かれてしまえばいい。そうすればこの胸の痛みも、きっと分からなくなるのに。 涙は止まらない。胸の痛みも治まらない。 きっとこれから先、ずっとこうして葵のことを引きずりながら生きていくんだ……俺は…… 自分でしでかしたことだというのに、目の前には絶望しか見えず、その現実から背けるようにして目を伏せている俺の手に、また濡れた感触がした。 葵の頬に触れたままの右手に。 「………僕も……僕も……………苦しい……」 葵の震える声に、伏せていた顔を思わず上げる。 目の前に座る葵の目からは、涙が零れ落ちていた。

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