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第31話
先輩にぎゅっと抱きついたまま、僕はただただ、じっとしている。先輩の胸はいつものように温かくて、ぴったりとくっついているだけで僕は幸せなんだ。
すうっと息を吸うと、先輩の匂い。大好きで大好きで仕方のない、優しい匂いがする。
離れ離れになっていた2年近くの間は、本当に寂しくて、何とか先輩を感じたくて。使っていた洗濯用洗剤も、シャンプーも、リンスも、石鹸も、何もかもを、先輩の家にあったものと同じにしたことがある。
そうすれば、先輩の匂いに包まれて……たとえ一人でいたとしても先輩の横にいるような気持ちになれるんじゃないかと思って……
でも、駄目だった。
似ている匂いなんだけれど何かが違う。うまく言葉では伝えられない、でも、絶対に足りない何かがあって。
結局、先輩がいなければ同じ香りにはならないんだと、やっぱり先輩がいなければ駄目なんだと気づかされて……余計に寂しくなってしまったんだ。
でも、今はこうして一緒にいられる。
こうして先輩の匂いに包まれて、体温を感じることができる。
それだけで、こんなにも幸せ。
けれど、幸せなのが僕だけなのだというのなら……先輩が僕と別れたいと思っているのなら……僕は、それを受け入れるしかない。
だってやっぱり、好きな人には幸せでいて欲しい。いつも笑顔でいて欲しい……たとえ自分が幸せでなくなったとしても。
だから先輩の別れの言葉を受け入れた。
だから笑顔で別れを告げた。
僕の中の先輩を求める気持ちも、幸せを望む気持ちも、全力で封じ込めて。
でも……でも、先輩は言ってくれた。
『俺も、お前と一緒にいるだけで幸せだよ』
こんなすごいプレゼント、今までもらったことがない。
先輩は僕と一緒にいるのが幸せだって……僕と同じ気持ちでいてくれたんだって……!
思い出したらまた嬉しくなって、ぎゅうっと先輩の胸に顔を押し付けると、先輩も嬉しそうに笑って僕の背中を撫でてくれた。
ああ、やっぱり幸せ。
そうしてしばらくくっついていると、木立の向こう側からがやがやと人の話し声が聞こえた。
思わず二人一緒に身体を離す。どきどきしながら様子を窺っていると、そのまま母屋の方へと声は消えていった。
「……夕食を食べに行くところ、って感じかな」
「うん。すっかり暗くなってるしね」
抱きついている間はすっかり忘れていたけれど、先輩が来たときにはもう、日が沈みかけていたんだった。気づけば辺りはすっかり暗くなっていて、池の周りは漆黒の闇が広がりつつある。
「そろそろ戻ろうか」
「うん」
縁台から立ち上がって、離れへと続く道へ戻ろうとすると、先輩がぴたりと足を止めた。
………ん?
不思議に思って先輩を見ると、「……ん」と言って手を差し伸べた。
意味がよく分からなくって、思わず首をかしげてしまう。
手が、どうしたの?
すると先輩は「暗いから危ないだろっ」とぶっきらぼうに言って、右手で僕の左手を掴んで歩き出した。
これって……これって……これって!
「先輩!手、つないで歩いたら、僕たちのことばれちゃうよ?」
男同士で手をつなぐってやっぱりめずらしいし、変に思われちゃうかもしれない。僕はそれでもいいけれど、先輩がそう思われたら……困る。
「ばーか。ここは旅先だろ?誰に見られたって平気だって。誰も俺たちのこと、知らねーんだから」
「……あ、そっか」
そういえば長谷川さんと悠希君以外、ここに知ってる人はいないんだった。
……そっか……そっか!
ここは特別な場所なんだと気づいたら、何だか嬉しくなってしまって。思わずつないだ手をもぞもぞと動かして、指と指を一本ずつ絡ませて握った。これなら、さっきよりもぎゅっと手をつなげる。
ちらりと先輩を見上げると、特に嫌がるというわけでもなく、何だか照れたように前ばかり見ていた。
「先輩」
「何だ?」
「僕、幸せ」
そう言った僕に先輩は「……俺も」と言ってくれた。
もう一度見上げた先輩の耳は、暗い中でも分かるほど赤く染まっていた。
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