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第34話

寝室に戻ると、夕食を食べている間に仲居さんが準備をしてくれたようで、畳の上に二つ並んで布団が敷かれていた。何だか旅館に泊まりに来たって感じがすごくして、どきどきした。 窓側の障子がうっすらと明るくて、そっと手をかけて開けてみると。 「………あ……今夜は満月なんだ」 夜空にぽっかりと大きな満月が浮かんでいた。こうして月を見るのも、何だか久しぶりな気がする。 縁側に続くガラス戸を開けると、春とはいえ少し冷たい夜の空気が火照っていた僕の体を冷やす。そっと縁側に出て腰を下ろすと、さっきよりも高い位置に月が動いたように見えた。 「葵ー、お前もちょっと飲むかー?」 広間の冷蔵庫から新しいビールの缶をもってきた先輩は、備え付けのコップを手にとる。僕はそんなにお酒が強くないから、一缶飲み切れないんだ。 「うん。ちょっとだけ飲む」 先輩も縁側に出て僕の横に腰を下ろすと、ビールの缶を開け、コップに半分くらいついで僕に渡してくれた。それから缶とコップをこつんと当てて「乾杯」というと、缶のままビールを飲んだ。 僕も一口。また一口。 今日はいつもと違うことばかりだったからかな。何だかふわふわした気分。 「月、きれいだねー」 「ああ……きれいだな」 そう言って先輩は手を伸ばすと、僕の眼鏡に少しかかっていた髪の毛を、そっと横に流してくれた。 ……それからずっと、何でかじーっと僕の方を見ている。 「先輩、ちゃんと月、見てる?」 「あー、見てる見てる。きれいだなー」 「って、絶対見てないよねっ。もー、何で………くしゅん!」 おしゃべりをしていたら、くしゃみをしてしまった。少し、身体が冷えたみたい。 「おい、ちゃんと髪を乾かしたか?湯冷めしてるだろ……ちょっと待ってろ」 そう言うと先輩は立ち上がって部屋の隅へ。備え付けの棚をごそごそと漁ると……紺色の羽織を手にして僕のところに戻ってきた。 「ほら。これ着とけよ」 戻ってきた先輩は、そう言って僕の肩に羽織をかけてくれた。 優しい。 先輩は何でか、自分のことをあまりよくは思っていないみたいだけれど、こんなふうにいいところがいっぱいあるのにね。寒さなんてどこかに飛んでいってしまったみたいに、心がぽかぽかしてくる。 また僕の横に座った先輩は「ほら」と言って、僕に何か紙袋を差し出した。何だかよく分からないけれど、反射的に受け取ってしまう。 「ついでにこれも渡しとく」 「え……何、これ」 10センチ四方程の紙袋。表面には土産物屋の名前と電話番号がプリントされている。 開けて見ろ、というように先輩が頷いたので、がさがさとテープを剥がして中のものを取り出した。袋から手のひらに転がり出たのは…… 「ストラップ?」 猫の飾りのついた、根付風のキーホルダーだった。この猫のキャラクターは…… 「『温泉にゃんこ』だ…」 「そ。お前さ、昼にあの二人がこのキャラクターのグッズ選んでるの、じっと見てただろ?この猫が気に入ったのかなーって思って」 確かに門前町を散策したとき、このキャラクターのコーナーの前で楽しそうに選んでいる二人を見て、羨ましくなってしまったんだけど……それは、このご当地キャラが気に入ったんじゃなくて、「お揃い」が羨ましかったんだ。 だから正直に言うと、別にこのキャラのグッズが欲しかったわけではない。でも、先輩が僕のことを気にかけてくれて、こっそり用意してくれていたのは嬉しい。 本当に欲しいものとは少し違うけれど、これはこれで宝物だよね。 「………先輩、ありがと…」 ストラップを手にお礼を言う。嬉しいよって気持ちが伝わるように、笑顔で。でも先輩は、あれ?という顔をして首を傾げた。 「このキャラクター、好きなんじゃないのか?」 「うん、可愛いよね。大事にする」 「……………」 あれ? うまく笑えたと思ったのに、先輩は僕の顔を見て、考え込んでいる。先輩が僕のために買ってくれたものだから、これはこれで嬉しいんだけれど。 「………お前、緑が好きだったよな?」 「うん。緑は好きな色だよ」 キーホルダーに使われている組紐は緑色。ちゃんと先輩は僕の好きな色を知ってて、それを選んで買ってくれたんだ……それも嬉しい。 でも、また先輩は考え込む。 あれ? あれ?あれ? ちゃんと嬉しいんだけどな……伝わっていないのかな…… 反応がなくて、何だか心配になってきて、どうしたの?って声をかけようと思ったところで、先輩は急に立ち上がった。 びっくりして固まってしまった僕のことは気にもとめず、先輩はまた部屋の隅の棚へと足を運んだ。

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