165 / 243
第34話
寝室に戻ると、夕食を食べている間に仲居さんが準備をしてくれたようで、畳の上に二つ並んで布団が敷かれていた。何だか旅館に泊まりに来たって感じがすごくして、どきどきした。
窓側の障子がうっすらと明るくて、そっと手をかけて開けてみると。
「………あ……今夜は満月なんだ」
夜空にぽっかりと大きな満月が浮かんでいた。こうして月を見るのも、何だか久しぶりな気がする。
縁側に続くガラス戸を開けると、春とはいえ少し冷たい夜の空気が火照っていた僕の体を冷やす。そっと縁側に出て腰を下ろすと、さっきよりも高い位置に月が動いたように見えた。
「葵ー、お前もちょっと飲むかー?」
広間の冷蔵庫から新しいビールの缶をもってきた先輩は、備え付けのコップを手にとる。僕はそんなにお酒が強くないから、一缶飲み切れないんだ。
「うん。ちょっとだけ飲む」
先輩も縁側に出て僕の横に腰を下ろすと、ビールの缶を開け、コップに半分くらいついで僕に渡してくれた。それから缶とコップをこつんと当てて「乾杯」というと、缶のままビールを飲んだ。
僕も一口。また一口。
今日はいつもと違うことばかりだったからかな。何だかふわふわした気分。
「月、きれいだねー」
「ああ……きれいだな」
そう言って先輩は手を伸ばすと、僕の眼鏡に少しかかっていた髪の毛を、そっと横に流してくれた。
……それからずっと、何でかじーっと僕の方を見ている。
「先輩、ちゃんと月、見てる?」
「あー、見てる見てる。きれいだなー」
「って、絶対見てないよねっ。もー、何で………くしゅん!」
おしゃべりをしていたら、くしゃみをしてしまった。少し、身体が冷えたみたい。
「おい、ちゃんと髪を乾かしたか?湯冷めしてるだろ……ちょっと待ってろ」
そう言うと先輩は立ち上がって部屋の隅へ。備え付けの棚をごそごそと漁ると……紺色の羽織を手にして僕のところに戻ってきた。
「ほら。これ着とけよ」
戻ってきた先輩は、そう言って僕の肩に羽織をかけてくれた。
優しい。
先輩は何でか、自分のことをあまりよくは思っていないみたいだけれど、こんなふうにいいところがいっぱいあるのにね。寒さなんてどこかに飛んでいってしまったみたいに、心がぽかぽかしてくる。
また僕の横に座った先輩は「ほら」と言って、僕に何か紙袋を差し出した。何だかよく分からないけれど、反射的に受け取ってしまう。
「ついでにこれも渡しとく」
「え……何、これ」
10センチ四方程の紙袋。表面には土産物屋の名前と電話番号がプリントされている。
開けて見ろ、というように先輩が頷いたので、がさがさとテープを剥がして中のものを取り出した。袋から手のひらに転がり出たのは……
「ストラップ?」
猫の飾りのついた、根付風のキーホルダーだった。この猫のキャラクターは……
「『温泉にゃんこ』だ…」
「そ。お前さ、昼にあの二人がこのキャラクターのグッズ選んでるの、じっと見てただろ?この猫が気に入ったのかなーって思って」
確かに門前町を散策したとき、このキャラクターのコーナーの前で楽しそうに選んでいる二人を見て、羨ましくなってしまったんだけど……それは、このご当地キャラが気に入ったんじゃなくて、「お揃い」が羨ましかったんだ。
だから正直に言うと、別にこのキャラのグッズが欲しかったわけではない。でも、先輩が僕のことを気にかけてくれて、こっそり用意してくれていたのは嬉しい。
本当に欲しいものとは少し違うけれど、これはこれで宝物だよね。
「………先輩、ありがと…」
ストラップを手にお礼を言う。嬉しいよって気持ちが伝わるように、笑顔で。でも先輩は、あれ?という顔をして首を傾げた。
「このキャラクター、好きなんじゃないのか?」
「うん、可愛いよね。大事にする」
「……………」
あれ?
うまく笑えたと思ったのに、先輩は僕の顔を見て、考え込んでいる。先輩が僕のために買ってくれたものだから、これはこれで嬉しいんだけれど。
「………お前、緑が好きだったよな?」
「うん。緑は好きな色だよ」
キーホルダーに使われている組紐は緑色。ちゃんと先輩は僕の好きな色を知ってて、それを選んで買ってくれたんだ……それも嬉しい。
でも、また先輩は考え込む。
あれ?
あれ?あれ?
ちゃんと嬉しいんだけどな……伝わっていないのかな……
反応がなくて、何だか心配になってきて、どうしたの?って声をかけようと思ったところで、先輩は急に立ち上がった。
びっくりして固まってしまった僕のことは気にもとめず、先輩はまた部屋の隅の棚へと足を運んだ。
ともだちにシェアしよう!