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第37話
風呂から上がって部屋に戻っても、まだ葵は眠ったままだった。
二つ並んだ布団の右側に眠っている葵の枕元に、音を立てないように腰を下ろす。
布団に寝かしつけてやったときに外した眼鏡は、俺が置いた場所にそのままになっていて、きっとあれから一度も目を覚ましていないのだろう。すうすうという小さな寝息が、静かな部屋に微かに響く。
二度と、二度と聞けないと思った優しい音。葵が側にいると、確かに側にいるという証の音だ。
ふと、布団からはみ出した手に目をやると、
「………あ」
その手には俺が渡した猫のストラップが、ぎゅっと握りこまれていた。
そんなに心配しなくても、誰もとったりしないのにな。それともそれだけ嬉しかったってことか?
正直、ただのストラップだし、このご当地キャラのことは知らなかったし。喜んでくれるか、本当は心配だったんだけど。
それに、「お揃い」ってことにも嬉しそうにしてたな。こんなささやかなことに喜んでくれちゃってさ。
「……………かわいいやつ」
ぐっすり眠る葵の頬っぺたをぷにぷにとつまむ。
柔らかい頬っぺたは相変わらず。もうちゃんと大人なのに、いくつになっても柔らかい感触。
起きてしまうかな、とも思ったが。まあいいか……むしろ早く起きてほしいし。
そんなことを繰り返していると、「………んー……」と葵が眉をしかめて、うっすらと目を開けた。
「………あ…れ……ぼく……」
「起きたか?」
「……んー……もしかして……寝ちゃってた?」
「ああ、一時間位かな?」
葵はまだ眠そうな目をぱちぱち。必死で起きようとしているけれど、眠くて仕方がないといった様子。
「無理に起きなくたっていいんだぞ。俺ももう寝るし」
苦笑しつつまた葵の頬を撫でると、葵の手が俺の手を掴んだ。寝起きだからか、いつもにましてぽかぽかしている。
俺の手をその口もとに引き寄せると、
「………あ、温泉の匂い……」
ぽつりとつぶやいた。
「あー……さっきまで温泉に浸かってたからな。露天風呂からも月が見えて良かったぞー」
満月が水面に映って、風情とかよく分からない俺でも綺麗だと思った程。葵が見たなら喜びそうだ。
すると、葵はむうっとした表情。
「……ずるい」
「はは。まだ月は出てるから、今からでも入れば楽しめるぞ」
「違うもん」
ん?違う?
きょとんとした俺の手を頬に当ててすりすりとすると、すねたように言った。
「……先輩と一緒に、温泉入りたかったのに……」
「……………」
『一緒に入りたかったのに』って、それは俺も同じだけど!だいたい先に高瀬君と一緒に入っちまったの、お前だろっ!
思わずつっこみたくなったけれど、それはできなかった。
葵が俺の手をもう一度自分の口もとに運ぶと、その指にそっとキスをしたから。
「……………」
いつもはそんなことしないのに、一度してみたら気に入ったのか……それから何度も口づける。
ちゅっ……ちゅっ……と小さなリップ音が響いて、俺は動けない。
すると、止められなかったことに安心したのか……さらに葵の行動は大胆になり、舌を出して俺の指をペロリと舐めた。
……何なんだ、ホント。
思いっきり子どもみたいに見えるときもあれば、年上の俺が驚くほど淫靡な仕種を見せるときもある。そしてたちの悪いことに、どちらの葵も魅力的で、どちらの葵も俺を夢中にさせるんだ。
小さな口もとからちろちろと蠢く赤い舌を味わいたくて。その甘い唾液を堪能したくて。
葵の動きを止めようとしたとき、俺の考えが分かっていたかのようにぴたりと舐めるのを止めた葵は、ぽっと顔を赤くして上目遣いで俺を見ながら、恥ずかしそうに言った。
「…………先輩……僕…………したい………」
「……………」
ホント、こいつは小悪魔だ。
俺は乱れた浴衣の襟元から覗くその細い首筋に噛みついた……小悪魔は退治してやらないとな。
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