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第56話

「おはようございます」 喉の渇きを覚えて目が覚め、横で眠る悠希を起こさないように気をつけながら寝室を出ると、さわやかな挨拶の声が聞こえた。 「おはよう、葵君。朝早いねー」 寝起きとは思えないしゃきっとした顔で、葵君は座卓の前に座っていた。手には急須。どうやら今からお茶を淹れるところのようだ。 「何だか目が覚めてしまって……僕、休みの日でもいつもどおりの時間に起きてしまうんです」 損してますよねと、笑いながら急須に茶の葉を入れる葵君の顔は、昨日のごたごたを感じさせないさわやかなもの。きっと田中と仲良く夜を過ごせたのだろう。 「長谷川さんも飲みますか?お茶ですけど」 「ああ。もらおうかな」 誘われるままに葵君の向かい側に腰をおろす。 急須に湯が注がれると、煎茶特有の香りが部屋の中に広がった。 「悠希君はまだ寝てますか?」 「うん。休日はいつも俺の方が先に起きるから。しばらくしたら起きてくると思うよ」 「そうですか。僕たちもですよ。たいてい僕が先に起きて、先輩は後からのんびり起きてくるんです」 「へー。あと、うちはね、半々の確率だけど、悠希は寝ぼけながら起きてくるよ」 「ふぇっ寝ぼける?」 「そ。今日はうちじゃないけど、見られるかなー?寝ぼけた悠希、かわいいんだけどね」 ついついのろけてしまった俺に付き合って葵君は軽く微笑むと、湯呑にお茶を注ぎ分けて差し出してくれた。 一口飲むとふくよかな香りとさわやかな苦みが口の中に広がった。うん。うまい。 「で、どうだったの?昨日の夜は……ちゃんと仲直りできたの?」 葵君も飲んだところを確かめてから、話を切り出してみる。 朝からこんな話題とは、自分でもどうかと思うが……田中が起きてきたなら聞けないし。あえて葵君にぶつけてみた。 「へ?昨日の夜ですか?」 本当にぴんとこなかったのか、葵君はしばらくきょとんとしていたが、頭の中で昨夜のことが再生されたらしい。 ぼんっと音が聞こえてきそうなくらい、突然顔を真っ赤にして照れ始めた。 「えっ…あっ、はい!……いや、仲直りって…いうか…その……」 ………あー…こりゃー、かわいいわ。 そんなにはっきりと慌てちゃったら、昨日の夜にあったこと、白状したようなものなのに。本人は気づいてない。 悠希もものすごく照れ屋で奥手な方だけど、葵君も同じタイプかな?とても26歳には見えない照れっぷりだ。 しかも演じてる感じのない、天然もの。 こりゃあ、田中はしっかりつかまえておかないと。案外ライバルは多そうだわ。 ……まあ、葵君自身は無自覚だろうけど。 「仲直り、できてよかったね」 あたふたしている葵君に『分かってるから、もういいよ』という意味をこめて一言。 すると、葵君もぴたりと止まって「……はい!」と、満面の笑みで返事をしてくれた。 「あいつ、鈍感だけどさ。すごい一途な男なんだよ」 「……鈍感……はい…」 「就職してから今まで、ずっと一緒に働いてきたけれど、他の女の子と噂になったことなんて一度もないんだ」 「……………」 「先輩や同期のやつに合コン誘われてもさ、絶対に行かないし。俺の知ってる限り、告白されるたびにその場で全部お断りしてたね」 「………はい」 「なんでそんなに頑ななんだって、たまには誰かと付き合ってみればいいのにって思っていたけど……なるほど、田中の心の中は君でいっぱいだったんだ」 「………心…の、中……」 「あんなに鈍くて気も利かなくて、ホント付き合うと大変なヤツだと思うけど……君といるときのあいつはすごく穏やかで幸せな顔してる。これまでずっと見てきた俺が言うんだから間違いないよ」 「……………」 「だからさ……葵君が嫌じゃないなら、これからもずっとあいつの側にいてやってよ。ツンツンしてて何考えてるか分かんないかもしれないけど、あいつが一番あいつらしくいられるのは、君と一緒にいるときだから」 「……………はい」 ちょっと涙目になった葵君が、俺のお願いに消えてしまいそうな震える声で返事をしてくれた……そのとき。 ガタン! 俺と悠希が使っている寝室から、物音がした。

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