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第60話
午前中から温泉に入れるなんて、本当に贅沢だと思う。日曜日がお休みだなんてなかなかないから、こうしてのんびり過ごせるなんて奇跡だなあ…
もう4月も後半で昼間は寒さなど少しも感じることはないが、朝夕はまだ寒さが残っている。特にここは山あいの宿だからか、脱衣場に入ると空気がきんと冷えていた。
少しでも早く温かい湯に浸かりたくて、二人とも大慌てで服を脱ぎ出したのだけれど…
「………あれ?悠希君…どうしたの、それ…」
服を脱いで見えるようになった背中のあちこちに、赤い斑点が浮かんでいる。昨日はこちらが感心するくらいすべすべの、シミひとつない肌だったのに…
「え?何が?」
意味がわからないといった様子でこちらを向いた悠希君の姿に、また息を飲む。
……背中だけでなく、首筋から腹部にかけても、たくさん斑点が広がっていた。
「……これ、いつできたの?……痛くない?」
「………え?……ちょっと待って。見てみるから…」
慌てて鏡の前に移動する悠希君。自分の体の異変を確認して……何故か顔が真っ赤になった。
「……えっと、これ……多分、そのー……キ…」
「………き?」
「………キ……キ……」
「…………?」
「………キス…マーク……だと…思う……」
キスマーク!?
びっくりする僕の顔を見て、ますます悠希君の顔が赤くなる。
……なるほど、だから長谷川さん、あんなに温泉に入るのを止めていたんだ。
「……………いいなぁ…」
思わず本音をつぶやいてしまったら、悠希君が驚いて尋ねてきた。
「こんなの、つけてほしいの?恥ずかしいだけだよ?だいたい、なかなか消えてくれないし…」
きっとこれまでに何度もつけてもらったのだろう……悠希君の声は、迷惑そうな困ったような、そんな感じの声……でも……
「でも、それって『悠希君は自分のもの』って印でしょ?何だかすごく愛されてるって感じがする……羨ましい……」
「………うーん、そうかなぁ……こういうの相手のことを考えてつけないのが大人だと思うんだけど……」
「…………」
キスマークをつけてもらえる悠希君とつけてもらえない僕とでは、なかなか意見は合わず……寒くなってきたのでとりあえず温泉に入ってから続きを話すことになった。
急いで服を脱いで、ざっと体を洗って、露天風呂に出ると二人で並んで湯に浸かった。
「あー……やっぱり、気持ちいいねー…」
「ホントだねー…」
温泉に浸かっていたら、何だかさっきまでのあれこれがどうでもよくなってきた。
先輩は先輩。長谷川さんは長谷川さん。それぞれが違うのは当たり前だし……そんなことを考えていると…
「あ」
一緒に温泉を満喫中の悠希君が、僕の方を見て声をあげた。
「………え?どうしたの?」
不思議に思って悠希君を見ると「ちょっと後ろを向いて」と指示された。何がしたいのかはわからないけれど、とりあえず言われた通りにしてみると…
「………これ……これ……これも、でしょ……」
つんつん。つんつん。
僕のうなじから背中にかけてを指で押しながら、嬉しそうな声。
「悠希君、どうしたの?僕の背中に何かついてる?」
「うん、ついてるよ」
ついてる?何が?
さっき、ちゃんと身体は洗ったけど…
「え?何がついてるの?」
「何がって!ちゃんと葵君にもついてるよ、キスマーク!」
えーっ!?
びっくりして手を当てるけれど、当然触っても分からない。分からないけれど……悠希君が、とってもにこにこしているから、きっと本当なのかも……
ふっと、さっきの先輩の様子が頭の中によみがえる……そういえば、先輩も僕たちが一緒に温泉に入るの、止めてた……
「それ、『葵君は田中さんのもの』っていう印だね。すごく愛されてるってことなんでしょ?」
「…………」
知らない間についていたキスマーク……僕が先輩に愛されてるって印……そんなことを考えたら、何だか嬉しくて……何だか涙が滲んできて……
「悠希君」
「うん」
「僕たち、幸せだね」
「………うん」
身体だけでなく、心もじんわりあたたかくなって……このままお湯に溶けてしまいそうだった。
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