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第62話
え?
思ってもいなかった出来事に、びっくりして身体が動かない。何で、ドアが……?
目を見開いて、扉の隙間から現れる人物を凝視する。
………誰?
怖くなって問いかけようと口を開いた瞬間、相手のほうが先に声をかけてきた。
「お前、何で先に帰るんだよっ。俺を置いて行くなよな!」
「……え……先輩?」
玄関の外に立っていたのは、むすっとした顔で荷物をもった先輩だった。
「どうしたの?忘れ物か何か?長谷川さんたち、下で待ってくれてるの?」
「は?長谷川なら運転代わってさっさと帰ったけど?」
「え!?じゃあ帰りはどうするの?休日だから電車の乗り換え大変なのに…」
明日の仕事のことを考えたら、今日は早く家に帰ったほうがいいのに、どうして僕の家に寄っちゃったの?
帰りはタクシーでも呼んだほうがいいのかな。
どうしようかと困惑している僕の様子に気づいた先輩は、ますます怖い顔になっていく。
………えー?じゃあ、どうしろっていうの?
何が正解なのかが、ちっとも分からない……先輩はどうしたいの?
「……なんだよ。まだ一緒にいたいのは、俺だけかよ…」
頭の中がぐるぐるして困っていた僕の耳に先輩のつぶやきが聞こえた。何だろう……子どもみたいにすねた声。
でも、すごく大事なことを言ってくれたような…
「まだ、そんなに時間たってねーし……長谷川に電話して拾ってもらうから、心配すんな」
「え?」
「んじゃ、俺帰るわ……また電話する」
先輩はくるりと身体を翻すと、ドアノブに手をかけた。
あっ。
「待って!」
先輩が帰ってしまうと思ったら……わがままだとか、明日のことだとか、そんなさっきまで考えていたことがすべてふっとんでしまって…
思わず先輩の背中に抱きついてしまった。
「うおっ!?……………葵?」
「………まだ、帰らないで…」
「お、おう」
「………もう少し、一緒にいて…」
「ああ………っと……それだけでいいのか?」
「……………」
「………葵?」
「………今日も……泊まっていって…」
言ってしまった。
こんなこと言ったら迷惑だって分かっていたのに、名前を呼んでくれた先輩の声が優しかったから……つい。
嫌われないかな……迷惑じゃないかな……
不安でいっぱいになって、恐る恐る顔を上げて先輩の顔を見ると…
「っ!」
振り返った先輩は嬉しそうな顔で僕を見ると、ぽんと頭を撫でてくれた。
「それは俺のセリフだわ。今夜も泊まってっていいか?」
「泊まっていってくれるの?でも、明日は仕事だよ?」
確かにスーツもシャツもネクタイも、ちゃんと部屋に置いてあるし、金曜日に使っていたビジネスバッグは大きめの旅行バッグにつっこんでいたみたいだけど……ここから出勤するの?
すると先輩は、にやりと悪そうな笑みをうかべて、僕に今まで隠していた秘密を教えてくれた。
「俺、明日は有給とった。金曜日に残業する交換条件で、急だけど月曜日に有給がとれるよう課長と交渉したんだよなぁ。だから、葵さえよけりゃー明日も一緒にいられるんだけど」
先輩は僕の左頬をふにふにとつまむと「どうする?」と尋ねてきた。
「………それって、何て答えるか分かっててきいてるよね?」
「まーな」
もうっ。何だかずるい!
でも…
「じゃあ、明日は僕と一緒に部屋でごろごろ、してくれる?」
「………それって、何て答えるか分かっててきいてるよな?」
僕もずるい返し方をしたから、おあいこってことで許してあげようかな。
end
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