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第22話
フライパンの上で鮭の切り身をひっくり返すと、おいしそうな焼き色がついていた。
今夜のメニューはシンプルな鮭のムニエルに、ジャガイモや玉ねぎ、インゲンをソテーしてハーブソルトで味付けしたものを添えて。スープはトマトを中心にいろいろな野菜を刻んで具だくさんにしてみた。パンでもいいけれど、先輩はご飯派だから、炊きたてが出せるよう時間を合わせて炊飯中。
明日は僕の仕事は休み。だからいつものように先輩は、仕事帰りに僕の部屋に来てくれた。
今は僕が夕食を作っている間にお風呂に入っている。
あれから一週間近く。先輩との関係は変わっていない。
どちらかがお休みの前の日にはお泊りをして、僕が夕飯を作って、先輩は「おいしい」と喜んでくれて。それから何でもないことをあれこれとおしゃべりをしてから眠る。
これまで当たり前に過ごしてきた当たり前の時間……でも。
ただ一つ変わったことをあげるならば……先輩と僕、二人一緒のベッドで寝ることはなくなった。
もちろん身体を繋げることもない──先輩は僕に触れることすら、やめてしまったのだから。
先輩との関係に陰がおちた頃から……これまで何度も悩んで、そのたびに何度も乗り越えてきたはずのある悩みがふつふつと再燃していた。
……僕は男だから……どんなに先輩が好きでも結婚することはできないこと。
家族を作ることもできないし、子どもだって産んであげられない。
僕にはできない……でも、あの人にはできる。
先輩の子どもなら、絶対可愛いと思う。
先輩だって、ちょっと厳しいところもあるけれど、やっぱり優しい……そんなパパになりそう。
先輩と……一度だけ会ったあの女の人と……二人に似た子どもと……想像の中の家族の姿は理想的なものに思えた。
『どうせ認めてはもらえないだろうから、勘当してくれて構わないって言った。そのあとすぐに、荷物をまとめてこっちに帰ってきて……それからずっと、連絡もとってない』
『そろそろ結婚しようって話もあって…夏には、ご両親に紹介してもらう予定で…』
彼女なら、先輩の家族だって喜んでくれる。
認められないから実家に帰れなくなる、なんてこともない。勘当されることもない。
僕が先輩をあきらめさえすれば──先輩も、先輩の家族も……あの人も、みんな幸せになれるんだ。
先輩があの人を選ぶのは当然のこと。
そうやって離れていこうとする先輩を引きとめることはできない。僕には何もできないし、何にもないから。
……あの日から、先輩が近くに来るたび身体が強張る。だから先輩も僕に触ろうとはしない。
もう、今は……セックスをして満足してもらうことだってできないんだ。
「─────い─」
側にいても触れない。快楽を提供することもできない。
先輩を悦ばせることのできなくなった僕に今できることなんて、ご飯を作ってあげることぐらいだ。
「─────おい───る─」
先輩はいつも、僕が作ったご飯を「おいしい」って言ってくれる。あの人よりもおいしいご飯を作っている間は、この部屋に来てくれるかもしれない。
僕を捨てないでいてくれるかもしれない。だから…
「─────葵!!焦げてる!!」
「───えっ……あっ、わあっ!」
──突然耳に入った、先輩の大きな声。
あわてて視線を手もとに戻す。
ぼんやり考え事をしている間に、フライパンのムニエルはすっかり黒焦げになっていた。
はっと気づいて火を止めると、左手で持っていたフライパンをシンクへと移す。底が濡れたシンクについたとたん、ジュワッという大きな音とともに白い煙がもうもうと上がった。
さっきまでおいしそうに焼けていた二切れの鮭は、すっかり見る影もない状態になっていた。
水を流しっぱなしにして熱を冷ましているが、どう考えてももう……この黒焦げの魚は食べられそうにない。
「……どうしよう…」
「葵、火傷してないか?」
「……どうしよう…ご飯…」
「葵?――また、具合悪いのか?」
「……どうしよう……どうしよう……どうしようっ…」
「葵!?」
驚いた先輩の大きな声が聞こえたとたん、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「………ふぇー……」
我慢できなかった嗚咽もこぼれ出して……立っていられなくて……思わずその場にへたりこんでしまう。
心を込めて作っていたはずなのに…
今、僕にできることはご飯を作ることぐらいで……それだけで先輩を引きとめていたのに…
「……葵、どうした?……魚ぐらい、ダメになったってたいしたことないだろ?」
先輩の怪訝な声。
横にしゃがむと僕の顔を覗き込む。
……でも、僕にとってはとても大きなことで、ふるふると首を横に振る。
「……大丈夫だから、気にするな?……別に夕飯は手料理じゃなくたっていいし…」
先輩は一生懸命慰めてくれているんだろうけれど、涙はあとからあとから零れ落ちる。
手料理じゃなくてもいいなら、それは……僕じゃなくたっていいってことじゃないの?
じゃあ、僕は一体、何のためにここにいるの?
側にいたって、食欲も性欲も満たしてあげられない。幸せな未来も築いてあげられない。
……本当に……本当に役立たずでダメなやつ。
こんな自分、消えてなくなってしまえばいいのに……
「……コンビニで弁当でも買ってこようか?……ちょっと出かけて、いつものラーメン屋でも行くか?ほら……『また行きたい』って言ってたろ?」
泣いている僕が哀れだったのか、ほっとけなかったのか……先輩はいろいろ慰めてくれたけれど、僕の涙も嗚咽も止まらなくて…
地の底まで堕ちていく気持ちを、浮上させることができなくて…
もう限界だったのかもしれない……そのままふっと意識を手放してしまったのだった。
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