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第26話

そのとき自分に何が起きたのか、正直今でもよく分かっていない。 自分らしくないような気もするし、そんなふうにしようなんて思ってもなかったのに。 ただ。 ただ、思わず身体が動いてしまったんだ。 ─────あっ。 あの人は先輩の右腕に抱きつくと、ぐっと自分の方へと引き寄せた。 それを見た瞬間、僕の頭は真っ白になって……気づけば走り出していた。 急いで二人の側に駆け寄ると、掴まれている先輩の右腕を、僕も掴んで引っ張る。全然強くはないかもしれないけれど、僕だって男だから、この人より力はあるんだ。 「うおっ!」 ぐいっと思いっきり引っ張ると、不意を打たれた先輩の身体は大きく揺れて、彼女は思わず手を離した。 「え?は?……葵!?」 その隙に二人の間に身体を捩じ込むと、先輩の身体を自分の背中に回して両手を広げ、彼女がもう二度と触れることができないように遮った。 「ダメです!」 突然のことに状況が理解できないのか、彼女は大きく目を見開いている。 それはそうだ。前に一度だけ会ったどうでもいい男が突然現れて、恋人を奪おうとしているんだから。 でもだからって、この行動の意味を理解するまで待ってあげる、そんな心の余裕は僕にはない。 僕だって必死なんだ。 「この人は僕のだから、あなたに譲ってあげられません!先輩に触らないでください!」 これまで言いたくて、でも言えなかったことが口からとび出して。そんな自分に驚きながらも、どこかすっきりしてて……僕は胸を張って彼女の前に立つことができた。 「─────は?」 目の前で彼女はびっくりして大きく目を開いた。 それからだんだん眉が寄って、不機嫌な顔に変わっていった。 「……何、言ってるの?あなた、この前の人ですよね?後輩なんでしょ?ただの」 ……ただの。 ただの後輩。その言葉はぐさりと僕の胸を刺してじくじくと痛む。 「あなたに用はないから、そこをどいてよ。今あたしたち、大事な話をしてるんだから!」 彼女は僕に邪魔されたのが気に入らなかったのか、刺々しい口調で僕に噛みついた。 この前会ったときには何だかキラキラした人だと思ったけれど、今はイライラした空気が彼女の身体を包んでいて……はっきり言ってしまえば、僕には苦手なタイプの女性だ。 このままくるりと背中を向けて、そそくさとここから立ち去りたい。 ……でも。 ここで引き下がるわけにはいかない。 いかないんだ。 「………いや、です」 「何それ、意味わかんない!そこ、どきなさいってば!」 「や……いやです、どきません!」 ひるみそうになる心を奮い立たせるように、ぐっと口唇を噛む。 別れようって思ってた。それがみんなにとって一番いいことだと思ったから。 僕が我慢すれば、みんな幸せになれるんだからって… でも、実際に目の前で二人が一緒にいるのを見たら、無理だった。 自分に嘘をつくのは無理だった。 ……僕は先輩と一緒にいたい。 先輩と一緒じゃなきゃ、嫌だ。 だって……ずっと、ずっと、先輩だけを想ってきたんだ。 僕にとって、先輩がすべてなんだ。 『はい、どうぞ』なんて、簡単に譲ってなんかあげられない。 「なんなのよ、あんた!『譲れない』って、何!?ただの知り合いのくせに、でしゃばらないでよ!」 「っ!───ただの知り合いなんかじゃありませんっ!」 「は?知り合いじゃあないっていうんなら、彼の何だっていうのよ!?」 「それはっ」 「知り合いでも、後輩でも何でもいいわ!あたしたちの間に割り込んでこないで!二人の恋愛に口を出す資格、あんたにはないんだから!」 「……………」 ──資格。資格がない。 僕は、僕には資格がないの? でも……もう何年も先輩と一緒に過ごしてきた。 何度もキスをして、何度も抱き合ってきた……それでも、僕には資格がないの? そんなはずはない。 僕にだって、あがく資格はあるはずだ……だって、僕は先輩の恋人なんだから。 ………だけど、それは言えない。 言えば、カミングアウトすることに……秘密をばらすことになる。 この人は自分のことを「恋人」で「同僚」だと言っていた。 一時の気の迷いだったのかもしれないけれど、男同士で恋愛関係にあったという事実──それを知られることは、先輩にとって不利益だ。 だとすれば、「自分は恋人だ」なんて言えない…… 僕は、伸ばしていた両手を静かに下ろした。

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