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【日常】エッツェル留学記3(1)
ランス様の屋敷にお世話になって一週間くらい経った。僕は案外元気だ。
グランは王太子の仕事もあるみたいで、時々城に行っている。ランス様はこのアパートの管理人もしていて、何かと仕事がある。ベリアンス様は軍の総司令で帰らない日も多い。
結局僕は、ここでも一人暇な気がした。
「はぁ…」
アパートの中庭にあるベンチに腰を下ろして、僕は空を見上げる。竜人の国に比べると少し膜を張ったような空。
「僕はここにいる意味があるのかな?」
何かを学ぶのが留学だと思う。でも、何を学べばいいんだろう。一通りの学習は終わっている。魔法だって嫌いじゃないし、勉強した。剣は得意とまでは言わないけれど、一応父上のお墨付きをもらった。
「大事な事を学んでこい」と、父上は確かに言った。けれどその「大事な事」って何?
そんな事をとりとめもなく考えていると、不意に誰かが帰ってきた。
着崩した黒の軍服は妙に色気がある。引き締まった胸元と鎖骨が僅かに見えている。髪は黒髪で顔にかかる程度。角は羊のように巻いていて黒い。僅かに垂れた、紫にピンクを混ぜたような色気のある瞳がこちらを見て、妖艶に笑った。
「あれぇ? 君って、ランス様の所にいるっていう竜人くんかなぁ?」
「え? あぁ、はい」
声をかけられると思っていなかったから、驚いた。
その人は近づいてきて、僕を正面から見る。なんとも色気のある人で、ちょっとドキドキする。遊ぶような笑みを、僕は見続けてしまう。
「ふーん、かっわいぃ。まだ若いんだねぇ。黒髪に黒い瞳ってことはぁ、黒龍なんだねぇ」
「はい。あの…」
「あぁ、ごめんねぇ。俺はヴィクトール、ここの住人なんだぁ。皆、ヴィーって呼んでる。よろしく」
「えっと、エッツェルです」
なんだか油断できない。でも、妙に引かれてしまう。紫の垂れた瞳が楽しそうに僕を見ている。そこから、目が離せない…。
「君、寂しいのぉ?」
「…え?」
なんだか、頭の芯がぼやける感じ。上手く回っていない。この目だけを、黙って見てしまう。
ヴィーはしゃがみ込んで、僕の目を真っ直ぐに見た。唇をペロリと舐めるその口元を見て、鼓動が乱れるのは何故? この人の言葉だけを聞いている気がするのは、何故?
「可愛いぃ。ねぇ、エッツェル。寂しいなら俺が相手をしようか?」
「あい、て?」
「そぉ」
頬に触れる手が温かい。絡むような視線から逃げられない。伸び上がるようなヴィーが、僕の耳に息を吹き込むように言った。
「気持ち良く、夢見心地にしてあげる。寂しいなんて思えない程、愛してあげる」
「!」
愛して…あげる…。
その言葉が胸の中で膨らむ。
僕は欲しい、僕だけを見てくれる目が。僕だけを求めてくれる手が。僕の居場所が、欲しい。必要とされたい。そうじゃないと、僕はどこにいればいいの?
不意に体を後ろから引かれた。呆然とされるがままになっていると、誰かが後ろから抱きしめてくる。知っている温もりが、匂いがする…。
「グラン?」
ぼんやりしながら、心に浮かんだ人の名前を呼んだ。この匂いはグランだ。色香のある匂いがしている。
「エッツェル、大丈夫か!」
「…え?」
「ヴィー!」
走った怒気に当てられて、ぼやけた頭が戻ってくる。視界がクリアになるようで、僕はパチパチと瞬きをして背後の人を見た。
「ヴィー、いくら何でもおふざけが過ぎる。彼は国の客人だ」
「そんなに怒る事ないでしょ? それに、本気じゃなかったよぉ。何より俺に魅せられたのは、その子の心の弱さだよ」
悪びれる様子もないヴィーが、笑って立ち上がる。今は目を見てもあの不思議な感じがしない。さっきのは一体、なんだったんだろう?
「それにしても、グランがそんなに怒るなんて珍しぃ。大事なら、印付けておくんだねぇ」
「っ!」
それだけ言い残し、ヴィーはヒラヒラと手を振って歩き去って行った。
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