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第1―3話

そしてある秋の日。 朝食を終えると、家政婦がニコニコと笑って「今日の午後、吉野千秋さんがいらっしゃいますよ」と言った。 俺は思わず立ち上がった。 「本当ですか!?」 「本当です。 お昼ご飯の後にお着替えをお持ちします。 吉野さんは1時半頃いらっしゃいます」 そして家政婦はふふふっと笑った。 「吉野さんからの伝言です。 『遅刻しても怒るなよ』ですって」 俺もいつものポーカーフェイスを崩して笑った。 「あいつらしいな」 昼食が終わると、俺はいそいそと家政婦が持って来てくれた洋服に着替えた。 トップスはグレーのグラデーションのチェック柄で、ボトムスは濃い茶系のコットンパンツだ。 いつもはサンダルの足元も、磨き込まれたローファーが用意されている。 靴には全く不満は無いが、トップスとボトムスには多少文句を言いたい。 デザインは完璧だ。 サイズも俺にぴったりだ。 なのに、トップスのシャツは釦がひとつも無く、その代わりジッパーが付いている。 ボトムスに至ってはパジャマじゃあるまいしウエストはゴムだ。 その事を家政婦に言うと、家政婦は微笑んで答える。 「シャツは裾を出すデザインですし、裾に隠れてウエストのゴムも見えないでしょう? ゴムでも綺麗にタックが入っていて、長身でスタイルの良い羽鳥さんにとってもお似合いです」 そして「特別ですよ」と言うと助手に全身が映るキャスター付きの鏡を持って来させた。 この部屋には、洗面所に顔がやっと映る大きさの鏡しか無いのでありがたい。 鏡で全身を見てみると、確かに良いデザインだ。 吉野は俺のスーツ姿を見慣れているから、こういうラフなスタイルも新鮮だろう。 俺が助手に「ありがとう」と言うと、助手がにっこり笑って「どういたしまして」と言って鏡を部屋から出そうとする。 コロコロと回る黒いキャスターが嫌に目に付く。 この会話…。 何度も繰り返してないか? 吉野が俺のスーツ姿を見慣れている? この部屋に来て以来、スーツなんて着ただろうか? 吉野に会う時はいつも、ジッパー付きのトップスを着て、ウエストがゴムのボトムスを着ている…よな? アアアアア。 頭の中がぐるぐると渦巻く。 身体が震える。 何かせずにはいられない。 俺は「うえっ」とか「あぐっ」とか意味不明の叫び声を上げながら、ベッドのシーツを剥がした。 シーツを引き裂きたいのに引き裂けない。 きっとバスタオルと同じような生地なんだろう。 その時、家政婦が静かにやさしく言った。 「吉野千秋さんが羽鳥さんは時間に正確な方だと仰っていましたよ」 俺の手からシーツがはらりと床に落ちる。 そうだ。 俺は何をしてるんだ。 俺は生まれてから一度も吉野を待たせたことは無い。 こんなことをしている場合じゃない。 「トリ、深呼吸して。 3回だけでいいよ。 直ぐに頭がすっきりするよ」 そうだ。 そうだな、千秋。 俺は深呼吸を3回する。 ほらもう頭がすっきりした。 俺は助手にもう一度鏡を見せて欲しいと声をかけた。 服装が乱れていないか確認したいからと。 助手は快く鏡を見せてくれた。 服は殆ど乱れていなかった。 俺はほんのちょっとした乱れを治すと、助手に「ありがとう」と言った。 そして午後1時15分。 俺は面会室にいた。 そこは作りこそよくある刑事ドラマの面会室のようが、素晴らしく豪華な部屋だ。 前面の部屋とは3センチの分厚いガラス…初めて面会室に来た時このガラスはどれほど強いのかと訊いたら家政婦は「防弾ガラスですよ」と答えた…で隔たれいて、刑事ドラマと違うのは何処にも隙間が無いことだ。 だから天井近くに高性能マイクが着いていて、俺と吉野の声を拾ってくれる。 そしてガラスに沿って丁度デスクくらいの高さに大理石の細いカウンターのような物が壁の端から端まである。 A4サイズの書類などなら余裕で置ける幅だ。 それに天井に小振りのシャンデリアが下がっている。 勿論シャンデリアは電灯だし、それだけでは暗いせいか、さり気なく部屋を照らす照明器具も完備されている。 それになんと言っても天井近くに細長いガラス面があるのだ。 窓と違って開けることは出来ない。 けれど春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の風景が見られる。 俺の部屋とは違って柵が無いので、思い切り風景を楽しめる。 ガラスの向こうの部屋も、俺のいる方の部屋と全くデザインだ同じだ。 ひとつ違うのは、あちら側の部屋の隅にはロココ調の全体が白く金色に縁取られた丸テーブルがあり、その上に絵画の描かれたやはりロココ調の大きな花瓶に花がふんだんに飾られている。 俺は以前は花などに興味は無かったが、吉野が病気になって、俺に病気を感染させない為に、このような部屋で会うことになってから、花を見るのが楽しみになった。 それは普段生活している部屋が真っ白なせいかもしれないし、花と一緒にいる吉野がいつも以上にかわいく見えるせいかもしれない。 そして午後1時30分にあちら側の扉が静かに開く。 吉野が転がるように入って来て、境界のガラスに飛びつくように手を着く。 「トリ!」 小さな真っ白な顔。 タレ目気味の大きな黒い瞳。 小さな鼻と桜色の小さな唇。 ふわふわで艷めく黒い髪。 華奢な身体。 俺達は会うと、最初に必ずガラス越しに手を重ねる。 大きな俺の手に隠れてしまう吉野の細く小さな白い手。 「千秋、元気だったか?」 「うん!」 そう言いながら吉野は顔を赤くして、ポロポロと涙を零す。 「また泣く。 直ぐ会えるのに。 吉野が元気になれば、また通い同棲だって出来るぞ。 料理を作って洗濯をして掃除をして…。 吉野が漫画に専念出来るように。 締め切り破りをさせないように、な」 俺が笑いながら言うと、吉野も照れくさそうにえへへと笑い、デニムのポケットからタオルハンカチを取り出すと顔を拭った。 俺はあっと思った。 そのハンカチは吉野が隔離病棟に入ってから、俺が通販で吉野に買ってやったものだったからだ。 「吉野…ハンカチ使ってくれてるんだな」 吉野がニコッと笑う。 「トリ、通販で買い物し過ぎ! ハンカチだけじゃないよ。 ハンカチと同じ柄のバスタオルも使ってるし、パンダの柄のパジャマも着てるし。 良く見ろよ~今日着てる服!」 そうして吉野はその場でくるんと一回転する。 俺は、ああと思う。 吉野は上から下まで、俺が通販で買って贈った物を着ていた。 スニーカーすらも。 そのスニーカーからチラリと見える靴下までも。 「良く似合ってる」 「そ…そう?」 頬を赤くして上目遣いで俺を見上げる吉野がかわいくて堪らない。 抱きしめて、キスをして、その先も。 一晩中吉野を感じて、吉野にも俺を感じて欲しい。 吉野の病気が移ってもいいから、一緒にいたい。 吉野の苦しみを分かち合いたい。 なぜ恋人の俺だけが安全な場所にいて、吉野一人が苦しまなければならないのか。 『俺だけが安全な場所にいて』 …え? 『俺だけが安全な場所にいて』 そう言えば、チーフアシスタントの柳瀬やアシスタントのメンバーはどうなっているんだ? 俺と同じように、安全な場所から原稿を受け取って、アシスタントをしているのか? 『俺だけが安全な場所にいて』 『俺だけが安全な場所にいて』 『俺だけが安全な場所にいて』 『俺だけ』が? どうしてだ? 「うわあああ」 俺は奇声を上げると頭を掻きむしった。 これ以上考えちゃいけない。 でもこの先にきっと真実が…ある…ような… 「トリ、今プロットのコピー持って行ってもらったから見てくれる?」 吉野の明るい声に、俺はハッと顔を上げた。 吉野は何事も無かったかのように、ニコニコと笑っている。 すると「失礼します」と家政婦の声がして、俺がいる部屋の扉が開いた。 家政婦はいつものように男の助手を連れていて、大理石のテーブルにA4のファイルと、俺がいつも使っているクレヨンのセットを置いた。 そして俺に一礼すると静かに扉から出て行った。 俺は固定されているロココ調の椅子に座る。 吉野がガラスにぴったりとくっつく。 「後でゆっくり見てもらってもいいんだけど。 返事はバイク便で送って。 ほら、トリはプロットを読むと止まらなくなっちゃうだろ? 面会時間が減っちゃう!」 「そんなこと言って、本当は面と向かってダメ出しされたくないんじゃないか?」 俺が意地悪く笑って見せると、吉野は唇を尖らせる。 「自信作なんだからな! 驚くなよ!」 「分かった分かった。 じゃあ、おしゃべりでもしようか」 苦笑する俺に構わず、吉野が楽しげに話し出す。 隔離病棟にいても、漫画を読んだり、アニメを観たり、ゲームをやったり、好きなことをマイペースでやっているようだ。 吉野らしくて笑ってしまう。 俺は『自分の部屋』と呼べる部屋はあの真っ白な部屋しかないから、吉野が今連載している漫画に合わせて選んで読んだ、過去の吉川千春の漫画と連載中の漫画の内容を照らし合わせながら感想を言ったりする。 吉野は真剣に聞いていて、時にはメモまで取っている。 こんな時、やはり俺は吉野の担当編集なんだな、と実感する。 だが面会時間の1時間はあっという間だ。 「面会終了5分前です」 スピーカーから家政婦の声が聞こえる。 初めての面会の時、終了時間と共に吉野と俺に迎えが来てしまい、吉野が号泣して一人で歩くことも出来なくなったので、それ以降、こうして5分前に家政婦が知らせてくれるようになった。 「トリ…」 「千秋…」 俺達はどちらからともなくガラスに両手を付け、重ねる。 そうしてガラス越しにキスをする。 吉野が愛しくて堪らない。 俺の世界が吉野を中心に回っていることを実感し、喜びで満たされる。 吉野はガラスから唇を離すと、真珠のように清らかな涙を零す。 大丈夫だよ、吉野。 吉野の病気が治るまで、俺はいつまでも待っているから。 ずっと吉野を愛し続けるから。 離れ離れでも、俺達の心は変わらない。 俺達は愛し合い、その上、吉野の漫画を二人で創り続けるんだ。 こんな素晴らしい事があるだろうか。 部屋の扉が開き、迎えの家政婦と助手が入ってくる。 「羽鳥さん、お時間です」 俺は精一杯笑って「千秋、またな」と言う。 千秋は真っ白な頬を赤くして、この世界にこれ以上存在しない美しい涙を次々と零しながら、「またな、トリ!プロット待ってる!」と泣きながら笑う。 「千秋。好きだ。愛してる」 俺は助手に背中を押され、歩きながら呟く。 高性能のマイクは、どんな小さな音も拾ってくれることを知っているから。 「俺も!トリ!トリが好きだよ!」 俺は歩みを止めず、チラリと振り返る。 吉野も助手に背中を押されながら、顔だけこちらに向けて歩いている。 吉野と俺の目が合う。 その時、花瓶に飾られた薄いピンクの薔薇の花びらが、はらりと落ちた。

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