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第1―4話

俺は面会室から出ると、直ぐ目の前のトイレに駆け込む。 そして昼食を全て吐いてしまう。 吐くと言っても昼食から時間が経っているから、固形物はほんの少しで、後は胃液だけだけれど、苦しいことに変わりはない。 何度も何度も水を流す俺を、一緒にトイレに入ってきた助手と、トイレの外で待つ家政婦は、辛抱強く待っていてくれる。 そして気の済むまで吐いて水を流すと、助手に支えてもらって部屋に戻る。 俺は一直線に洗面所へ向かう。 歯を磨き、口内洗浄液を交互に使う。 けれど余り歯を磨き過ぎると歯茎を傷つけてしまうからといって、いつの間にか一人増えた助手が二人がかりで俺をベッドに固定すると、『先生』がやって来て俺の腕に針を刺す。 吉野に会った後、必ず起こしてしまう出来事だ。 理由は分かっている。 吉野に会えて幸せな分、また会えない日々が来ることが、悲しくて寂しくて怖いのだ。 『先生』はいつもやさしい。 針は刺すけれど。 俺の気持ちを分かってくれる。 今日もやさしく俺の手を握って、「点滴は1時間もすれば終わりますよ」と言って、何かつるりとした物を俺の指先に触れさせ、それを目の前に翳してくれた。 それは薄いピンク色の一枚の花びらだった。 俺は直ぐに気が付いた。 吉野が面会室から出て行く時に、花瓶に飾られていた薔薇から落ちた花びらだと。 先生は穏やかな笑みを浮かべて言う。 「吉野さんからね、今日の思い出に羽鳥さんに渡して欲しいとお願いされたんです」 俺は吉野のやさしさに胸がいっぱいになる。 ズボラで生活能力が無くて直ぐにサボろうとして…。 欠点だらけの吉野かもしれないけれど、神様に愛され、漫画の才能というギフトを授かっている。 そのギフトは漫画の才能だけに留まらない。 吉野は天使のようにやさしい。 そしてネガティブなところのある俺を、男らしく叱り飛ばしてくれることもある。 それも全てやさしさから来るものだ。 俺はこの部屋に来る前、担当作家の資料用の本を読んで、天使は神の御使いだけでは無く、悪と戦う者だと知った。 その時は何とも思わなかったが、この部屋に来て、吉野は天使だと確信した。 俺の瞳から自然と涙が溢れる。 先生はティッシュで俺の涙を拭ってくれる。 やさしく、丁寧に。 そして花びらをベッドのサイドテーブルにそっと置く。 俺はやさしい『先生』を尊敬している。 俺の世話をしてくれる家政婦も、その助手にも感謝してもしきれない。 けれど誰も吉野には敵わない。 なぜなら吉野が俺に向けてくれるやさしさは、天使のやさしさなのだから。 吉野は豪華なロビーの一角で、イタリア製のソファに座って、必死に声を殺して泣いていた。 涙は後から後から流れる。 けれどロビーにいる人々は、そんな吉野に誰も関心を示さない。 このロビーで泣き崩れている人間は、そこかしこにいるからだ。 そして泣いている人の心は、本人以外には分からないことを、皆、理解しているからだ。 それなのに。 どうして毎回『ここ』に吉野が来る日を知るのか分からないが、この世で一番聞きたく無い声が「吉野さん」と呼ぶ。 吉野はその人間を見ない。 見たくも無いし、その人間のする事は毎回同じだからだ。 普段は丸川書店で開催されるパーティー以外では着ないスーツをきっちりと着て、すらりと背の高い身体を鏡面のように輝く床に膝をつき、土下座する。 「吉野さん、本当に申し訳ありませんでした」 吉野は謝るならトリに謝れと心の中で叫ぶ。 けれどあの日以来、羽鳥はこの男を目にしただけで狂ったように暴れる。 暴れるだけならまだしも、自分までも傷つけてしまう。 その発作を収める為には、最低でも1週間はかかるのだ。 勿論、『先生』はこの男に羽鳥との面会謝絶を言い渡した。 羽鳥と面会を出来ない者は多い。 この最悪の男は別にしても、丸川書店の人間、吉野の家族、自分の両親にさえ、羽鳥は興味を示さないのだ。 面会室で会っても、5分も持たず、羽鳥は自分の部屋に戻せと絶叫する。 そして『先生』から、面会は御遠慮下さいと言い渡される。 今、羽鳥と面会出来るのは吉野だけだ。 男は数分間、床に額を擦り付けると立ち上がり、「本当に申し訳ありません」と頭を下げる。 深く、深く。 吉野は「だから?」と言う。 自分でも驚く程、冷たい声で。 だってこの男に早く消えて欲しい。 羽鳥との面会の思い出に浸りたい。 例え必ず泣くことになろうとも。 男は「失礼しました」と言うとまた頭を下げ、足早に玄関に向かう。 吉野の大きな瞳の端に、玄関付近で立ち竦むエメラルド編集部の小野寺が映る。 あの男は一人で謝りに来ることも出来ない臆病者なのだ。 恋人の小野寺を連れて来て、行きも帰りもドライブ気分を味わうのだろう。 卑劣な男。 吉野は生まれて初めて人を憎む感情を知った。 吉野は周りからも素直だと言われて育ったけれど、あの男に関してはひねくれた考え方しか出来ない。 大好きで大切な愛している恋人をあんな目に遭わせて、吉野に醜い感情を教えたあの男を憎むなと言う方が無理だ。 羽鳥の両親は勿論、吉野の家族だって、あの男を憎んでいる。 事情を知っている者は、あの男を、皆、蔑む。 丸川書店エメラルド編集部編集長、高野政宗を。 それの始まりは1年半前のことだ。 絶好調のエメラルド編集部に、また素晴らしい仕事が同時に決まった。 それは高野編集長の担当作家の2クール分のドラマ化と、美濃の担当作家のテレビアニメ化された作品の劇場版化、木佐の担当作家の新しいテレビアニメ化だ。 そしてドラマ化やアニメ化の雑事に精通している者が羽鳥しかいないので、今まで通りその三本の雑事の仕事は羽鳥が担当した。 けれどそれがそもそもの間違いだったのだ。 編集長の高野は、ドラマ化やアニメ化に精通している者が編集部にたった一人しかいないことが異常事態だと、もっと早く気付くべきだったのだ。 そして分からないなら分からないなりに、羽鳥にアドバイスをもらいながら、担当編集が雑事を覚え、自分の仕事なのだから、自分でこなすべきだったのだ。 それは今迄の悪習を慣習と捉え、生真面目で責任感の強い羽鳥が絶対に雑事を引き受けてくれるという、編集部全体の『甘え』に過ぎない。 その仕事に対する『甘え』を、編集長の高野すら何の疑問も持たず羽鳥に向けているのだから、部下の美濃や木佐が羽鳥に雑事をしてもらうことに疑問を持たないのは当然だったろう。 羽鳥は普段と変わらず、これも副編集長の仕事と、生真面目に責任感を持って三人の雑事を『自分の仕事と並行しながら』遂行していた。 そうして羽鳥は多忙の為、自分の担当作家に直接会うこともままならなくなった。 月間エメラルドの看板作家で恋人の吉野にさえ。 だが羽鳥は頑張った。 電話・FAX・パソコンを駆使し、自分の仕事を滞らせるような真似は絶対しなかった。 吉野もその時は羽鳥の抱えている仕事量を詳しくは知らなかったが、羽鳥が多忙なのは分かっていたので、羽鳥に迷惑をかけないようにプロットやネームもスケジュール通りに仕上げたし、締め切りも守った。 時には締め切り破りをしてしまったけれど、それも1~2日の遅れで済んだ。 デッド入稿の常連の吉野だが、デッド入稿も絶対にしなかった。 家事も柳瀬に教えてもらいながら、自分でやっていた。 ただ、仕事は順調でも、羽鳥に会えないのが寂しかった。 けれど『寂しい』なんて吉野が言えば、羽鳥はどんなに忙しくても時間を作って吉野に会いに来てしまう。 羽鳥の仕事の邪魔だけは、絶対にしたくなかった。 テレビ電話という手段もあるが、恥ずかしがり屋の吉野には出来なくて。 それに会いたいのは画面越しの羽鳥では無く、生身の羽鳥だから。 吉野は寂しくて寂しくて我慢出来なくなると、羽鳥からの仕事のメールの最後に打たれた『吉野、スケジュールを守ってくれてありがとう。早くお前に会えるように頑張るよ。』という言葉を繰り返し読んでいた。 だがそんなエメラルド編集部に、一人だけ普通の感覚を持っている人間がいた。 一番新人の小野寺だ。 高野と美濃と木佐の、ドラマ化と劇場版化とアニメ化の仕事が同時に始まって3ヶ月。 羽鳥は明らかに痩せた。 自分も仕事に熱中すると寝食を忘れて最悪倒れてしまうこともあるが、それは一時的なことだ。 羽鳥はそうでは無く、じわじわと少しずつ痩せてきて、今は以前の羽鳥よりひと回り小さくなったように感じる。 小野寺は嫌な予感がした。 そして小野寺はプライベートで高野と夕食を一緒に取っている時、それとなく「羽鳥さん、痩せましたよね?今、羽鳥さんに仕事が一点集中してますし、仕事がキツいんじゃないでしょうか?」と切り出した。 高野は笑い飛ばした。 「まあ、あれだけ忙しけりゃ少しは痩せるかもな。 でも羽鳥はお前と違って自己管理は完璧に出来るやつだし、心配ねーよ」 それでも小野寺は羽鳥が心配で、美濃と木佐にも訊いてみた。 だが二人共高野と同じような返事しか返って来ない。 思い切って羽鳥にも「羽鳥さん痩せましたよね?仕事のやり過ぎじゃないですか?俺で良かったらお手伝いします!」と申し出たが、羽鳥は微笑んで「あとひと山ってとこだから。ここを乗り越えたらかなりラクになる。大丈夫だ。心配かけてすまん」と謝られる始末だ。 けれど小野寺には、どうしても羽鳥が『大丈夫』だとは思えなかった。 そこで、高野に怒られることを覚悟して、社長の井坂に直訴した。 井坂は「確かに痩せてきているとは思っていたんだ」と頷いて、「朝比奈」と一言言った。 秘書の朝比奈は「はい」と返事をするとパソコンに向かう。 そして1分もすると一枚の紙を井坂に渡した。 井坂の顔色が変わる。 そして「高野を大至急呼べ!」と怒鳴った。 社長室で井坂と高野は対面していた。 小野寺は高野が来る前に、エメラルド編集部に戻らされた。 井坂は淡々と言った。 羽鳥の残業時間が1ヶ月で300時間を越えている異常事態であること。 労働基準監督署に羽鳥が駆け込めば、事は上司のお前だけに留まらず丸川書店全体の問題になること。 万が一、羽鳥が今の状態で病気にでもなれば、すんなりに労災認定されること。 「今は就労時間に厳しいんだ。 月300時間も残業させて労災認定ともなれば、丸川書店がマスコミに糾弾されることは間違い無い」 「ですが私達はフレックス勤務ですし。 それにエメラルドは売上トップを維持しています」 井坂が珍しくテーブルをバンッと叩く。 「フレックス勤務なら月300時間の残業が許されると思ってるなら、お前は救いようのない馬鹿だ! それに羽鳥の残業時間は、エメラルドで群を抜いている。 お前は50時間程度しか残業してないよな? 羽鳥は無能だから残業時間が多いのか!? お前は優秀だから残業時間が少ないのか!? 違うだろ! 羽鳥は優秀だ。 その羽鳥がエメラルド編集部の雑事を全部一人で背負って、文句のひとつも言わず、月300時間の残業をしなけりゃエメラルドはトップの売上げを維持出来ないんだよ! お前は編集長だろ。 管理職のお前が部下に仕事を押し付けて、あんなに痩せさせて、俺が才能があるからエメラルドはトップなんですーなんて思ってんなら、今すぐ丸川を辞めてもらっていい! いいか。 明日中に対策を考えて実行しろ。 これは社長命令だ」 そして追い込まれた高野は、最悪の『対策』を実行したのだった。

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