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第1―5話

転がり続ける石は、いつか角が取れて丸くなるという。 けれど、でこぼこの石が丸くなることが良いことだと誰が決めたんだろう? きっとその人は不幸で、そのでこぼこも不幸で、転がるうちに消えて無くなるといい思ったのかな。 それならば、小さな雪玉が転がり続けて大きくなることは良いことだと誰が決めたんだろう? きっとその人も不幸で、その小さな雪玉も不幸で、増えていく雪は幸福で、転がるうちに不幸を幸福が包んで、不幸より幸福が大きくなればいいと思ったのかな。 俺は馬鹿だ。 月刊エメラルドを売り上げ1位にして、良い本を創って、良い本なのだから当然コミックスが売れて、伝説のような作家を抱えて…それがエメラルド編集部の皆の夢の実現だと思っていた。 いや信じていた。 でこぼこの石も、小さな雪玉も、転がり続けることに意味なんて無いのに。 ほら、そこに。 でこぼこの石がある。 小さな雪玉がある。 それを美しいと思う人もいる。 でこぼこの石と小さな雪玉を見つけて、幸福だと思う人もいる。 担架に乗せられる羽鳥を見ながら、高野は血だらけの顔で、そんな胸が締めつけられるくらいどうでもよくて、泣きたくなるくらいくだらないことを、ボンヤリと考えていた。 高野は井坂に言われて、一晩考えて答えを出した。 それは案外簡単なことで、答えを思いついた時、高野はひとり笑ってしまった。 どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったんだろう。 これなら羽鳥も井坂さんも絶対納得する。 そして小野寺にLINEをした。 『明日、定時出勤な。』 直ぐに既読マークが付いて、 『了解しました』 と、味も素っ気も無い一言が表示される。 高野は小野寺らしいトークに満足すると、眠りについた。 翌朝、高野と小野寺は玄関の前で会い、嫌がる小野寺を高野が引っ張って行くという定番の光景で丸川書店に向かった。 不快な満員電車も小野寺をからかって、高野は楽しめた。 小野寺は顔を赤くしたり、青くしたりと忙しそうだったが。 そして丸川書店の最寄り駅で降りると、二人は羽鳥の後ろ姿を見付けた。 小野寺がこれ幸いと羽鳥に駆け寄る。 「羽鳥さん、おはようございます!」 羽鳥がちょっと驚いた顔をする。 「おはよう、小野寺。 今日は早いんだな」 小野寺は嫌そうに振り向くと「横暴上司の命令です」と言う。 羽鳥は「そういうことか」と笑って、高野に「おはようございます」と挨拶する。 高野も「おはよー」と言うと羽鳥と小野寺に合流して、二人の真ん中に入り込み、二人の肩を抱く。 「…高野さん?」 「高野さん!離して下さい!」 真逆の反応に高野はニヤリと笑って、「朝イチで三人で会議な」と言った。 そしてラッキーなことに、10時から会議室の予約が取れた。 10時には美濃が作家の予定の関係で出勤して来るので、編集部の留守番も頼める。 ただ予約が取れたのは10人用の会議室で、3人で打ち合わせするには少し広すぎるが、取れないよりはマシだ。 兎に角、高野は『この話』を早く終わらせたかった。 その内10時になり、美濃が出勤して来た。 美濃は、普段はこの時間には出勤していない高野と小野寺を見ても、ミステリアスな笑顔を崩さず「おはようございます」と三人に挨拶をして自席に着く。 すかさず高野が「美濃、羽鳥と小野寺と打ち合わせして来る。第三会議室だから。後、よろしく」と言うと立ち上がり、歩き出す。 高野の後に続く羽鳥と小野寺に、美濃が「頑張ってね~」とひらひらと手を振った。 第三会議室に入ると、高野はデスクの中央の席にどかっと座った。 その前に羽鳥が座り、その右隣りに小野寺が座る。 高野が羽鳥に向かって頭を下げる。 「今迄、悪かった」 「高野さん…?」 いつもポーカーフェイスの羽鳥が珍しく困惑した表情になる。 高野は頭を上げると、羽鳥を真っ直ぐに見た。 「俺のドラマ化と美濃の劇場版化と木佐のアニメ化の雑事を押し付けて悪かった。 今回だけじゃなく、今迄、羽鳥がアニメ化やドラマ化の雑事をするのが当然になっていて、担当する編集者の教育を怠って、俺自身も覚えようとせず、本当に悪かったと思ってる。 今日からは、自分の担当の雑事は自分でやらせる。 だから羽鳥はアドバイスをしてやって欲しい」 高野がそこまで一気に言うと、羽鳥が下を向いた。 テーブルに置かれた羽鳥の手が、小刻みに震えている。 「羽鳥?どうし…」 「俺の仕事に何か不備がありましたか?」 下を向いている羽鳥の顔は、高野からは見えない。 羽鳥の震えは手から腕、腕から肩へと全身に広がっていく。 「俺は仕事を押し付けられたなんて思っていません。 副編集長として、やらなければならない仕事をしているだけです。 何か俺の仕事に不備があるなら教えて下さい。 直ぐに訂正します」 羽鳥の震えた声に、高野が深いため息を吐く。 「そういうことじゃねーって。 俺の話をちゃんと聞いてたか? 俺は今迄のやり方が悪かったと気付いたんだよ。 だからエメラルド編集部をより良くする為に、やり方を変えたいって言ってんだよ。 それにお前にも迷惑をかけて、本当に悪かったと思ってる」 「仕事は仕事です。 迷惑だなんて思ったこと、一度もありません。 俺こそ何か失敗をして迷惑をかけているから、仕事を外されるんでしょうか?」 羽鳥は声は勿論、今や全身を震わせている。 頭の天辺から爪先までも。 小野寺は目を見開いて、俯き震える羽鳥を見つめている。 高野はなぜ羽鳥が納得してくれないのか、理解出来なかった。 井坂の言う通り、今迄、アニメ化やドラマ化の雑事を羽鳥一人にやらせていたのは間違いだった。 だから謝罪した。 そして担当者の仕事を担当者にやらせるのは当たり前のことだ。 身体や声まで震わせて、何でそんなに頑なに拒むんだ? 高野は感情が高ぶっているように『見える』羽鳥を落ち着かせようと、今度は数字で訴えることにした。 普段、沈着冷静で理路整然としていて仕事に無駄の無い羽鳥には、その方が通じると思ったからだ。 それが高野の大いなる勘違いで、悲劇の始まりとも知らずに。 高野は言い聞かせるように穏やかに語り出す。 「お前の先月の残業時間が300時間を越えている。 これって異常事態だよな。 人事から何の連絡も無かったから、俺もそこまでとは気付かなかった。 管理職失格だ。 反省してる。 もし万が一お前が過労で倒れて病気にでもなって労働基準監督署に知られれば、上司の俺だけじゃなく丸川書店全体の問題になる。 それに直ぐ労災認定されるだろう。 今や就労時間は社会問題だ。 月300時間も残業させて労災認定ともなれば、丸川書店はマスコミに必ず叩かれる。 ここまでは分かってくれるな?」 羽鳥は何も言わず、ただ全身を震わせている。 言ったのは小野寺だった。 「高野さん、見損ないました! つまりマスコミが怖いから、羽鳥さんの残業時間を減らせってことですか!? 羽鳥さんは有能な方です! 無駄な仕事はしていません! それでもそれだけの残業をしなければならない量の仕事をしているだけです!」 「分かってるよ、そんな事は!」 高野が小野寺を見据える。 「だから羽鳥がやる必要の無い仕事を辞めさせるんだろう。 それに羽鳥が吉川千春先生の担当を一人でこなしていることも、羽鳥の仕事が増えている一因だ。 だから小野寺、お前が吉川先生の副担に付け。 そうすれば羽鳥は吉川先生の雑務から解放されて、重要な仕事だけをやればいい」 その時だった。 羽鳥が「小野寺、逃げろ!」と叫んだ。 「…に、逃げる…?」 ポカンとしている小野寺の腕を羽鳥が掴み、小野寺を立たせる。 勿論、羽鳥も立ち上がっている。 もう羽鳥は身体を震わせてはいない。 そして何が何だか分からず動こうとしない小野寺の腕をぐいぐいと引っ張り、ドアへと向かう。 「は、羽鳥さん?」 「逃げろ!小野寺!早く!」 高野が二人に追いつく。 小野寺の腕を掴む羽鳥の手を、高野が引き剥がそうとする。 「小野寺に暴力を振るうんじゃねえ! 腕を離せ!」 「小野寺、逃げろ! このままじゃ吉野の副担にされてしまう!」 「馬鹿野郎! お前が吉野さんを独り占めしたいだけだろ! 副担を付ければ無駄な仕事が減るだろーが! 何が逃げろだ!」 高野の力で小野寺の腕を掴む羽鳥の手の力が僅かに緩んだ。 小野寺が思わず羽鳥を見上げる。 小野寺はゾッとした。 誰もが魅了される羽鳥の二重の切れ長の瞳。 その瞳は今や落ち窪み、何も映していない。 古い洋画で観たサメの目のように暗く感情が無い。 それなのに羽鳥は必死に「小野寺、逃げろ!」と繰り返している。 小野寺は一瞬で悟った。 羽鳥さんは今、普通じゃない。 高野さんじゃ駄目だ。 誰かを呼んで来て、医務室に連れて行かなければ。 小野寺は「分かりました!」と叫ぶと自らドアへと走る。 羽鳥の手が、小野寺の腕から離れる。 小野寺が振り返る。 羽鳥は安心したのか、やさしく微笑んでいた。 それは小野寺が見た羽鳥の最後の笑顔だった。 だが収まらないのは高野だ。 「小野寺、待て! 何処に行くんだよ!」 小野寺を追ってドアから出ようとする高野を、羽鳥が後ろから羽交い締めにする。 「羽鳥、離せ! お前がこんなやつだとは思わなかった! 俺が何を言った!? 俺はお前の為を思って…」 高野の叫びは羽鳥の地を這うような声で遮られる。 「俺は必要の無い仕事をしてたんですね。 俺が仕事をすれば丸川書店はマスコミに非難されるんですね。 よく分かりました。 だけど」 羽鳥は一旦言葉を切ると絶叫した。 「何で吉野を巻き込むんだ! 副担なんていらないと、何度言えばあんたは分かるんだ! 吉野だって副担はいらないと、何度も断ってるだろう! 俺が残業し過ぎたことと、吉野に何の関係がある!? 吉野を巻き込むな!」 羽鳥は高野を思い切り突き飛ばす。 仰向けに床に倒れた高野に羽鳥が馬乗りになる。 羽鳥は無表情で「あんたの耳はなんの役にも立たないな」と言うや否や、両手で高野の顔を横向きに固定し高野の耳に噛み付いた。 高野は激痛に悲鳴を上げる。 羽鳥が本気で耳を噛みちぎろうとしているのが分かる。 高野の顔に生暖かい血が流れる。 だがそれも数分で終わった。 羽鳥は耳の付け根から噛みきれないと思ったらしく、あっさりと高野の身体の上から離れたのだ。 そして高野は信じられない光景を見た。 羽鳥が10人掛けのテーブルを壁に立てかけている。 そのテーブルは一人では絶対に動かせない重量なのに。 そしてネクタイを解くと椅子に乗り、一番高いテーブルの脚にくくりつけた。 丸い輪を作って。 羽鳥は何度かネクタイの結び目を確認している。 高野は余りの恐怖に動けなかった。 声すら発することも出来ない。 そして羽鳥はネクタイの輪に顔をくぐらせると、椅子を蹴った。 そこからの高野の記憶は曖昧だった。 羽鳥が首を吊った瞬間、高野は起き上がり、ぶらぶらと揺れる羽鳥に全速力で駆け寄り羽鳥の身体を支えた。 そして次の場面では、何故か横澤が隣りにいて羽鳥の身体を一緒に支えていた。 桐嶋の「切れたぞ!」という叫び声。 床に寝かされる羽鳥。 ドカドカと会議室に入って来る救急隊員。 担架に乗せられる羽鳥の、眠っているような安らかな顔。 そして次に気が付いた時には、高野は病院のベッドに寝かされていた。 耳を固定するためか、耳から顎、頭へと包帯が巻かれていて、耳まで届くネットの帽子を被されている。 「高野さん」 顔を見なくても分かる小野寺の小さな声。 小野寺は瞳に涙を浮かべると、 「耳は数針縫っただけです。 どこも欠けていないし、跡も残らないそうです」 そう言うと小野寺はナースコールを押して「高野さんが目覚めました」と言うと、ベッドに顔を押し付けて号泣したのだった。

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