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第1―6話
小野寺は第三会議室を出た後、ひたすら人を探して走った。
というより走りたいのに、足がもつれる。
それに、この階は会議室しかないので、廊下を歩いている人は殆どいない。
そんな時、廊下の壁にAEDがあるのが目に付いた。
まさか…
でも…
小野寺は迷う自分を叱咤した。
使わなくて済むなら、それでいい。
使うことになれば、ここにまた戻って来るのは時間の無駄だ。
小野寺がAEDをしっかり胸に抱くと同時に、ひとつの会議室のドアが開いた。
「具合が悪い人がいます!
助けて下さい!
一緒に第三会議室に行って下さい!」
そう言えば済むことなのに、口が固まったように動かない。
すると一人の長身の男が「おい!小野寺、どうした!?」と小野寺に向かって駆け寄った来た。
営業部の横澤だ。
小野寺はホッとすると同時に涙を溢れさせながら「だ、第三会議室…羽鳥さんが…」とそこまで言うと、横澤が「かせ!」と言って小野寺の手からAEDを奪うと走り出す。
その後を「おい、横澤!?」と月刊ジャプンの編集長桐嶋が追う。
小野寺はふらふらになりながらも、第三会議室に戻って行った。
横澤が見たのは、まさに地獄絵図だった。
首を吊っている羽鳥を、血塗れの高野が支えている。
横澤は直ぐに羽鳥の元に向かいAEDをそっと床に行くと、羽鳥の足を支え、絶対に自分を追って来てくれている桐嶋に向かって「ネクタイを切ってくれ!」と叫んだ。
編集者は殆どの人間がペンケースにカッターを入れている。
桐嶋は何も答えず素早く椅子に乗ると、ペンケースからカッターを取り出す。
ペンケースの中身がパラパラと宙に舞う。
10秒もしないうちに、「切れたぞ!」という桐嶋の叫び声と同時に、羽鳥を支える高野と横澤にずっしりとした重みが襲う。
だがネクタイを切った直後、桐嶋が羽鳥の両脇に腕を差し込んで支えてくれたので、羽鳥を倒さずに済んだ。
「羽鳥を寝かせろ!
横澤、AED!」
桐嶋が叫ぶ。
桐嶋と横澤はテキパキと羽鳥を床に寝かせる。
そしてAEDを取り出す。
「高野、救急車を呼べ!」
だが、高野は真っ青な顔でモゾモゾと羽鳥の足元で動くだけで、スマホを取り出す気配も無い。
桐嶋は舌打ちすると、自分のスマホで119番に通報した。
その時。
『措置は不要です。胸骨圧迫を続けて下さい』
と、AEDから声が流れた。
つまり…心肺停止…
それでも桐嶋は、スマホの向こうへ冷静に言った。
「こちら丸川書店本社。
怪我人は二人。
一人は首を吊り、AEDに拒否された。
一人は顔が血だらけだ。
こちらの原因はまだ確認していない」
桐嶋は丸川書店の住所と、第三会議室で起こったことだと付け加える。
救急隊員は直ぐに出動すると言って電話は切れた。
ふと見ると、横澤が羽鳥に胸骨圧迫をしている。
「羽鳥!羽鳥!戻って来い!」と繰り返し叫びながら。
涙をボタボタと零し、顔から汗を滴たらせて。
桐嶋は次に受付に電話を掛けた。
第三会議室で怪我人が二人出て、これから救急車が来ると伝える。
受付嬢は「了解致しました」と力強く答えた。
次は井坂だ。
電話に出たのは朝比奈だった。
だが今はそんなことはどうでもいい。
「第三会議室で羽鳥が首を吊った。
心肺停止の状態だ。
高野も怪我をしている。
救急車を呼んだ」
「了解致しました。
直ぐに必要な手配を致します」
電話が切れると、桐嶋は横澤に駆け寄った。
「どうだ?」
「まだだ」
その時、救急隊員が到着した。
高野はまるでぼんやりとした霧の中にいるようだった。
耳の痛みも、耳から流れる血も、首を吊った羽鳥の身体の重みも、桐嶋の冷静な声も、横澤の涙も現実味が無い。
そして羽鳥が担架に乗せられ運ばれて行くのを見ると、高野は意識を失った。
それから十日後。
丸川書店の役員用の会議室は重苦しい空気に包まれていた。
井坂の左隣に朝比奈が座り、その隣りに弁護士の資格を有する法務部の人間が一人座っている。
井坂の右隣りには高野と小野寺が座っている。
その前には羽鳥の両親と吉川千春の顧問弁護士が座っている。
「では」と朝比奈が口火を切る。
「病院の先生からの診断書も出た事ですし、労働基準監督署に労災認定を求めます」
すかさず吉野の顧問弁護士が口を開く。
「それは私が行います。
それがこの事案の依頼者である羽鳥芳雪さんのご両親と吉川先生の希望ですので。
それとこちらの書類を早急に揃えて下さい。
出来れば今日中に」
吉川千春の顧問弁護士が一枚の紙を朝比奈に差し出す。
朝比奈は紙を受け取ると素早く目を通し、法務部の人間に紙を渡す。
法務部の人間が頷き、席を立つ。
その背中に、会議室中に、悲痛な叫び声が響き渡る。
「絶対に芳雪が不利になるような策略はしないで!
真実だけを教えて下さい!
誤魔化しや嘘は絶対にやめて!」
羽鳥の母親の叫びに法務部の人間が立ち止まり、振り返る。
青ざめた顔で、それでもキッパリと答える。
「私共は法にのっとって、処理をさせて頂きます。
真実のみをお伝えすることを誓います」
そして深々と頭を下げると会議室から出て行く。
泣き崩れる母親の身体を父親がしっかりと抱き抱える。
労災認定は100%の確率で認定されるだろう。
月300時間の残業という事実だけでも十分なのに、第三会議室での高野と羽鳥と小野寺の会話の全て、横澤と桐嶋が現れてから救急隊員達が去るまでの全ての録音もあるのだ。
それは小野寺が録音したもので、別に小野寺に他意があった訳では無く、突然朝一で会議をすると言われ、羽鳥と小野寺は当然高野に、何の会議なのか、資料は何を揃えればいいのかと確認したが、高野は笑って「何もいらねーよ」と言うだけだ。
だからこのメンバーでは議事録を書くことになるであろう小野寺は、メモを取るだけでは不安で録音をしたのだ。
勿論、「何の会議か分からないので、議事録用に録音します」と高野と羽鳥に言って、高野が承諾してからテーブルに置いていたICレコーダーのスイッチを入れた。
高野には「大袈裟なやつ」と笑われたけれど。
それがこんな形で『役に立つ』とは思いもよらなかった。
それを羽鳥と高野が入院してから二日後、羽鳥が転院した精神医療センターの主治医が聞いた。
そして羽鳥の両親と井坂と高野と小野寺が、精神医療センターに呼び出された。
井坂の第一秘書ということで、朝比奈の同席も許された。
主治医は壁がグレーで窓も無く、全く飾り気も無いだだっ広いだけの会議室のような部屋に全員を通すと、部屋に鍵を掛けた。
「この部屋は、絶対に盗聴されない仕組みになっています。
それと皆さんのスマホの電源を切ってテーブルに置いて下さい。
パソコンやタブレットも同様にお願いします。
ICレコーダーなどの録音機器も同様にして下さい。
もし隠れて録音をなさった方は、刑事告訴させて頂きます」
そして主治医は主席に着いた。
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