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第1―7話

すると今までドア付近に固まっていた井坂達も、ネームプレートが置かれた席に着くとスマホの電源を切り、テーブルに置いた。 さすがに録音機器を持って来ている者はいない。 主治医の右手側に羽鳥の両親。 左手側に井坂達、丸川書店の関係者だ。 全員が席に着くと、主治医が淡々と話し出す。 「これからお話しすることは、羽鳥芳雪さんからの意思確認が直接取れないため、ご両親からの許可を得てお話しさせて頂きます。 まず、羽鳥さんに首を吊ったことによる脳の損傷も肉体的損傷もありません。 但し、精神錯乱を起こしていらっしゃいます。 病名が分かるにはもう少し時間がかかります」 羽鳥の母親がハンカチで顔を覆う。 「そして今回の件ですが、こちらは過労による精神疾患の発病と断定出来ます。 羽鳥さんは通常の仕事の他に、会社で三件同時に始まったプロジェクトの仕事を任され、その1ヶ月と半月後には鬱病を発症していたと思われます」 これには丸川書店側がざわついた。 「そんなに前から…?」 「そうですよ、井坂さん。 それでも羽鳥さんは頑張った。 鬱病として現れる病状も単なる疲れだと思い込んだ。 そして真面目に真剣にご自分の責務を果たしていた。 これがどんなに苦しいことか、分かりますか?」 主治医がタブレットを丸川書店側に向ける。 そこにはゴミ屋敷と化した部屋が映っていた。 「ま、まさか…」 小野寺の声が震える。 「そうです。 羽鳥さんのお宅のリビングです。 こちらもご覧下さい」 主治医が画面をスワイプする。 そこには塵一つ無く片付いた寝室とキッチンとダイニングテーブルがあった。 「これは…?」 訝しげな井坂に主治医が鋭い視線を向ける。 「羽鳥さんの担当作家で幼馴染の吉野千秋さんは羽鳥さんのベッドがお気に入りで、仕事が一段落すると勝手に眠りに来たりしていたそうです。 お互い合鍵を持っていらしたのでね。 それと吉野さんは料理が全く出来ず、羽鳥さんの料理が大好物だったので、時間がある時は羽鳥さんが料理を作ってやっていた。 つまり吉野さんに関わる場所は聖域で、汚す訳にはいかなかったのです」 「『訳にはいかなかった』と言うことは、リビングをゴミだらけにしたことに意味があると?」 「そうですよ、朝比奈さん」 主治医がじろりと朝比奈を見る。 「この写真はプロジェクトが始まった1ヵ月半後に羽鳥さんご自身のスマホで撮られている。 つまり撮ったのは羽鳥さんということです。 もし他人がこの部屋に入れば大騒ぎになるでしょう。 そしてこれだけのゴミで部屋を埋めるには1~2週間では出来ない。 羽鳥さんは元々潔癖で、ゴミを溜め込む習慣など皆無だったからです。 つまり逆算すれば3週間から4週間以上かかった可能性が高い。 つまりその時にはもう、羽鳥さんは鬱病だったと言えるのです」 羽鳥の母親がわっと泣き出す。 「そして羽鳥さんはこのゴミだらけの部屋の写真を撮った。 羽鳥さんを知る誰もが想像もしないであろう、この部屋を。 これこそが鬱病になった羽鳥さんの心の叫びだったんです。 もう無理だ、助けて欲しいと」 「どうして!?」 羽鳥の母親が泣きながら叫ぶ。 「高野さん、どうして芳雪一人にそんなに仕事を押し付けたんですか!? 300時間以上も残業をして…どんどん痩せていって…一番新人の小野寺さんでも何かがおかしいと気づいて動いて下さったのに! 社長さんに労災認定の可能性を聞かされてから慌てて芳雪の残業時間を調整しようとするなんて、高野さん、あなたそれでも人間ですか!? それに千秋ちゃんとまで引き離そうとするなんて…人でなし!」 高野が一昔前のロボットのように、ぎこちなく動き頭を下げる。 「…申し訳ございません…」 主治医が羽鳥の母親に穏やかに声をかける。 「お母様、落ち着いて下さい。 今日は丸川書店の皆さんに、芳雪さんの病気のことを分かって頂く為の会合ですからね」 母親が泣きながら「すみません」と頭を下げる。 主治医は「いえいえ」とまた母親に穏やかに声をかけると、別人のように厳しい視線で丸川書店の人間を、井坂から朝比奈、高野、小野寺と一人一人を確認するように見て言った。 「小野寺さんが録音されたICレコーダーも聞かせて頂きました。 特にこれと言った内容では無いと思います。 羽鳥さんは本来担当者がやらなければならない仕事を抱えている。 そして残業時間は異常ともいえる月300時間だ。 だから本来の担当者に仕事を戻そう。 それと丁度良い機会だから残業時間という現実を突き付けて、羽鳥さんと吉野千秋さん…ペンネーム吉川千春さんが拒否し続けている副担を、吉川千春さんに付けよう。 どれも高野さんが羽鳥さんの為に考え、羽鳥さんに話されたことです。 それに高野さんは謝罪までしている。 社会生活において大変良い環境と言えます。 心身共に健康な人間相手ならば」 主治医の最後の一言に、高野の身体がピクリと震える。 「羽鳥さんは薄氷の上を歩くような精神状態で仕事をしていた。 高野さんは間違っていない。 けれど高野さんの有能な上司としての善処は、真っ直ぐ羽鳥さんには届かなかったのです。 羽鳥さんは『自分に不備があるから仕事を外される』と受け取り、氷を踏み割り氷水に頭まで浸かってしまった。 その時の羽鳥さんは、ICレコーダーを聞いただけでも様子がおかしい。 本当はそこで高野さんは一旦話し合いを止め、井坂さんに羽鳥さんの様子を報告し、井坂さんが…敢えてハッキリ言わせて頂きますが、精神科に羽鳥さんを連れて行く手配をすべきだったのです。 だが有能な高野さんは、氷水に落ちて頭まで浸っている羽鳥さんを更に深く沈めてしまった」 今や羽鳥の母親は、子供のようにわあわあと声を上げてテーブルに突っ伏して泣いていた。 そこに研ぎ澄まされた日本刀のような鋭利な主治医の声が被さる。 「先程、羽鳥さんが撮ったご自分のお宅の部屋の写真をご覧になったでしょう? あれだけのゴミだらけの家の中にある聖域。 吉川千春…吉野千秋さんに対する羽鳥さんの執着は普通では無い。 そしてその執着は簡単に言い換えれられる。 それは愛情です。 そして今迄羽鳥さんは、愛する吉野千秋さんの公私共に最高のパートナーでいようと努力し続けていた。 それは吉川千春先生が漫画家として大成功していることが証明しています。 心の悲鳴が詰まったゴミ屋敷の中にある、埃ひとつ無い聖域のように、羽鳥さんは鬱病の病状が進めば進むほど、仕事で会えもしない吉野さんに清らかな唯一無二の愛情を注ぎ続けていた。 仕事に恋愛を持ち込むことはあってはならないという考えを、高野さんが羽鳥さんに提案したという訳ではありません。 高野さんは単に羽鳥さんのサポートをしてくれる副担当を付けようと善意で言ったのです。 なぜなら羽鳥さんの仕事量が多いから。 明快な理由です。 けれど氷水で溺れている羽鳥さんには、今迄の成功以上を高野さんは望んでいて、それには自分だけでは無理だと宣告されたと勘違いしたのです。 そして高野さんからの話しで、鬱病から一気に進行した精神疾患を発病した羽鳥さんは、副担として指名された小野寺さんまでもが、自分と同じような目に遭って、自分の巻き添えになってしまうと思った。 だから「逃げろ」という単語が出たのです。 そして小野寺さんは羽鳥さんが普通では無いと悟り、助けを呼びに会議室から出た。 大変賢明な判断です。 けれど羽鳥さんの為にと正しい事をやった高野さんには、それが理解出来ない。 そこで羽鳥さんに暴言を吐いてしまった。 後は録音の通りです。 羽鳥さんは高野さんの耳を根元から噛みきれないことに絶望した。 それは生きることへの絶望の象徴です。 そして羽鳥さんは一気に死に走った。 これが今分かっている羽鳥さんの病状と私の見解です。 そして羽鳥さんは今、拘禁室で拘禁服を着させられ、舌を噛まないようにマウスピースを入れられ、鼻から栄養点滴の菅を入れられてベッドに固定されています。 ご覧になりたければタブレットに画像が送られてきておりますので、遠慮無く仰って下さい。 何かご意見がある方はどうぞ」 会議室は静けさに満ちていた。 羽鳥の母親も、もう泣いてはいない。 上品な顔立ちを涙でぐちゃぐちゃに濡らし、ただ空中を見ている。 その時、小さな声がした。 「…俺の耳を根元から噛みちぎれれば、羽鳥は気が済んで、病気が治ったのでしょうか?」 「高野さん! ご家族の前で…止めて下さい!」 小野寺が高野の腕を掴む。 高野が小野寺に向かって倒れ込む。 主治医はキッパリと言った。 「治りません。 但し、首は吊らなかったと思います」 井坂は帰りの車の中で、独り言のように呟いた。 「俺も罪人だな」 「龍一郎さまは罪人などではありません。 ついでに申し上げますが、高野さんも罪人ではありません」 「じゃあ、俺達は何だ?」 珍しく朝比奈が口篭る。 だが朝比奈は言った。 「不幸が重なったのです」 「不幸が重なった、か…」 井坂の声が静かに泣いていることを朝比奈に伝えてくる。 それでも朝比奈は言う。 「今となっては誰が悪いなどと、犯人探しをするのは無意味です。 龍一郎さまは龍一郎さまにしか出来ないことを、羽鳥さんにして差し上げて下さい」 その時井坂は、もう泣き声を我慢することを諦めた。 吉野が全てを知ったのは、入稿が終わった日。 羽鳥が首を吊って七日後のこと。 丸川書店の役員用の会議室で、羽鳥の労災認定について話し合いが持たれた三日前だった。

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