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第1―8話
吉野は今回も頑張った。
なんと締め切りの1日前に原稿を上げたのだ。
それも夕方の4時過ぎ。
今回も修羅場には違いなかったけれど、チーフアシスタントの柳瀬以外のレギュラーのアシスタントの女の子達には、きちんと終電までには帰って貰えていたし、柳瀬も含めて徹夜もさせなかった。
それで締め切り予定日の1日前に仕上がったのだ。
柳瀬とレギュラーアシスタント達は、奇跡だ、いや絶対抜けがある筈だと、ギャーギャー騒いでしつこく原稿をチェックしていたが、原稿が完璧に仕上がっていると分かると、今度は歓声を上げた。
吉野はそんなみんなに、せっかく早く帰れるのだから、帰った方が良いよと笑顔で言った。
柳瀬も明日の締め切りが終ったら次の仕事に当日直行しなければならない予定だったので、こんなラッキーな日はもう一生無いかもなと憎まれ口を叩きながらも仕事場の後片付けをしてくれると、吉野の勧め通り帰って行った。
吉野は一人になると、スマホでいつも頼んでいるバイク便の予約をした。
明日の午前9時に丸川書店のエメラルド編集部に重要書類を届けて欲しいと。
すぐさまバイク便から依頼完了の確認メールが着た。
『了解しました。
明日の午前8時に書類を受け取りに参ります』と。
吉野はストックしてあるバイク便の封筒に、バイク便の会社がサービスで作ってくれた宛名と差出人のシールを貼ると、普段から羽鳥宛のに書類や郵便物の余白に描いているヒヨコのような鳥の絵を沢山描いた。
そして吉野はもう一度原稿を確認すると、丁寧に封筒にしまった。
羽鳥は吉野が締め切りは守ったとしても、その原稿が朝一で届くなんて想像もしていないだろう。
多忙な羽鳥に、吉野にしたら当然と言われれば当然だが締め切りを守って協力して、ちょっとした息抜きをしてもらえたら良いなあと思うと一人ニコニコと笑ってしまう。
きっと驚いて電話の一本でもくれるかもしれない。
それに褒めてくれるかもしれない。
吉野の大好きなあの少し低めの声で。
羽鳥は多忙を極めているらしく、吉野が1週間前から作画に入っても、確認の電話一本寄越さないし、羽鳥には吉野の他にも担当作家は複数いるから、今迄の経験上吉野のマンションに来れない時は宅配便等で差し入れを必ず送ってくれていたのにそれも無い。
吉野が我慢出来なくて羽鳥のスマホに電話をしても留守電に繋がってしまう。
そして返事は必ずメールだ。
それも毎回、
『忙しくて連絡出来なくてすまん。』
とだけだ。
仕事の相談をほのめかすようなメッセージを残しても、その仕事についての対処だけがメールされて来る。
吉野は思い切ってエメラルド編集部にも電話をしてみた。
けれど羽鳥はいつも不在。
折り返し電話が欲しいと伝言を頼んでも、やはりメールで『離席をしてて悪かった。何の用だ?』と一言。
何の用と訊かれても、『トリと話したいだけ』とは恥ずかしくて言えないし、その内吉野も修羅場に突入してしまい、羽鳥に連絡するのは原稿を上げてからにしようと決めて仕事に励んだ。
そして羽鳥をビックリさせて、電話でいいから声を聞きたいと思って、今回の作戦を立てたのだ。
吉野はゆっくり風呂に入ると、ここ数日の汚れを綺麗さっぱり落とし、冷凍食品だけれど食事もきちんと取って、ベッドに入った。
明日は早起きをして溜まった洗濯をして掃除もしよう。
もしかしてトリが来てくれるかもしれないし…。
吉野は胎児のように丸くなって、羽鳥の面影を思い出しながら甘い眠りに落ちて行った。
翌朝、吉野は午前6時に起きた。
洗濯機を乾燥まで設定して回すと、コンビニに行って今日一日分の食事とデザートを買って帰った。
それから朝食を済ませ、食洗機にたまった食器を入れる。
この食洗機は羽鳥の家事の負担を減らす為に、吉野が最新式の物を購入したのだ。
最新式だけあってフライパンや鍋も洗えるし、その大きさの為にちょっとキッチン自体をリフォームしなければならなかったけれど、羽鳥はまず無駄使いはするなと定番の説教の後、「ありがとう、千秋」と言って吉野の唇にキスをして、吉野を抱き上げると吉野がえ?え?と状況を把握出来ていないうちに、吉野は寝室で裸にされていた。
そうして吉野が最後には泣いて懇願しても羽鳥は離してくれず、何時間もセックスしていたのが懐かしく思い出され、ぼぼっと真っ赤になってしまったのだった。
そして8時になってバイク便が原稿を受け取りに来た。
吉野がバイク便のお兄さんに原稿を渡す。
「ではお預かりします!」
バイク便のお兄さんの明るく頼もしい笑顔に、吉野はわくわくしてくる。
吉野は一度目の洗濯物を洗濯機から取り出し、二度目も乾燥まで回して、リビングを掃除する。
もし、トリが来てくれたら…きっと驚く!
吉野は掃除機を掛けながら頭を軽く振る。
トリは今超忙しいんだから!
電話をくれるだけでも喜ばなきゃ!
いつもみたいにメールだけだったとしても、返信する時に綺麗になった部屋の写メを添付しするのはどうかな!?
吉野は楽しい想像を巡らせながら、家事に励んだ。
すると9時半に吉野のスマホが鳴った。
画面には『エメラルド編集部』の文字。
トリだ!
原稿を受け取ったんだ!
吉野は白い頬を紅潮させながら電話に出た。
「はい、吉野」
だが吉野の予想は外れた。
相手は静かな声で『おはようございます。編集長の高野です。原稿確かに受け取りました』と言ったのだ。
吉野はかなりガッカリしたが、羽鳥が後で9時丁度に原稿が届いたと聞いて、驚いてくれるだけでもいいと気持ちを切り替えた。
これで入稿が済んだという安心感もあった。
「じゃあ羽鳥によろしくお伝え下さい。
失礼します」
と吉野が電話を切ろうとすると、高野が慌てて『待って下さい!』と言った。
「は…はい?」
『吉野さん、今日お時間を空けて頂けないでしょうか?
一刻も早くお話ししたいことがあるんです。
社長の井坂も同席します。
よろしければ私共が吉野さんのお宅にお伺います。
どうかお願いします』
高野の口調は必死で緊迫している。
いつも余裕のある高野とは別人のようだ。
吉野は高野や社長の井坂とまで、打ち合わせしなければならないことがあっただろうかと首を捻った。
だが、吉野の仕事のスケジュールは羽鳥が全て管理しているので、吉野は自分が忘れているだけだと思い、気軽に「いいですよ」と答えた。
高野はホッと息を吐くと、口早に言った。
『ありがとうございます!
では1時間後の10時半にお伺いしてよろしいでしょうか?』
「あ、はい」
『伺うのは井坂と秘書の朝比奈と私と小野寺の4人です。
何のご用意もなさらないで下さい。
本当にありがとうございます。
では後ほど。
失礼致します』
「…はい…」
吉野が通話を切る。
吉野は高野の声が涙を含んでいるような気がして、不安が胸を過ぎった。
高野達は10時半丁度に吉野のマンションにやって来た。
吉野は驚いた。
全員が全員、暗く張り詰めた顔をしている。
吉野は何とか笑顔を作って、4人をリビングに案内するとソファに座ってもらい、高野に『何のご用意もなさらないで下さい。』と言われたけれど、せめてコーヒーくらい淹れようとキッチンに向かおうとした。
すると井坂に「吉川先生、私共には何も必要ありません。どうか先生も座って下さい」と言われてしまった。
吉野は井坂と朝比奈と高野達が座るソファのローテーブルを挟んで中央に座った。
小野寺はサイドチェアに座っている。
井坂が口を開く。
「吉川先生、どうか落ち着いて聞いて下さい」
そして井坂は羽鳥の身に起こった事を全て話し、最後にICレコーダーを再生したのだった。
井坂の話が終わり、ICレコーダーの再生が終わっても、誰も何も言わなかった。
吉野すらも。
吉野は何も言わず無表情で、最後まで井坂の話を聞き、ICレコーダーの再生も聞いていた。
小野寺はそんな吉野が心配だった。
羽鳥は自分の全てを懸けて吉野を守ってきた。
だからデッド入稿の常連でも原稿を落とした事は一度も無いし、私生活も羽鳥に頼り切りだ。
元来の性格もあるだろうが、そのせいか、あの一之瀬絵梨佳を抜いてエメラルドの看板作家になり、少女漫画家界のトップクラスにいても、吉野はガツガツしたところも、変にプライドが高い所も無い。
羽鳥が吉野の為に誠心誠意尽くしているので精神的に余裕があり、人を妬んだり、他人を見下すようなことをしなくても、一番好きな事…漫画を描くことに集中出来るからだ。
それにこれは小野寺の勘だが、二人は恋人同士だと思う。
だが、そんな『羽鳥芳雪』はもういない。
吉野のショックは計り知れないだろう。
それは井坂も朝比奈も高野も同じ思いだろう。
それなのに吉野は泣きもせず、丸川書店の誰も責めず、ただ印象的な黒い大きなタレ目気味の瞳で4人を瞬きもせず見つめている。
すると突然吉野が立ち上がった。
「羽鳥について連絡を取らなければならない方がいます。
直ぐに戻りますので少々お待ち下さい」
と言うとスタスタと仕事場に入って行く。
それから井坂と朝比奈と高野と小野寺は無言で吉野を待った。
吉野は20分もするとリビングに戻って来た。
そして井坂達一人一人の前に名刺を置いていった。
吉野は無表情で何の抑揚の無い声で言う。
「その名刺の加瀬先生は俺の顧問弁護士です。
そして今、これからの羽鳥に関する事案一切の代理人になりました。
依頼人は羽鳥のご両親になります。
これからは羽鳥本人には勿論、羽鳥のご両親にも直接連絡は取らず、加瀬先生を通して下さい。
それから高野さん」
「は、はい」
「俺は次の丸川書店との専属契約の更新はしません。
専属契約期間を越える仕事は、個人事務所を立ち上げますので、そちらで引き続きお受けします。
それと仮契約の仕事は全てキャンセルして下さい」
「吉川先生!」
井坂が立ち上がる。
「羽鳥のこれからの待遇は、丸川としても出来る限り有利になるようにさせて頂きます。
どうか考え直して頂けませんでしょうか?」
井坂が深々と頭を下げる。
朝比奈と高野と小野寺もそれに続く。
吉野はまた何の抑揚も無い声で、
「そういうお話も加瀬先生を通して下さい」
と言うと、4人を『帰れ』と促す為に、玄関に向かった。
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