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第1―9話

吉野は井坂達が帰ると、羽鳥の母親のスマホにまた電話をして、加瀬がこれからは羽鳥の両親と吉野の代理人だと井坂達に伝えたので、今日からは法的な事は羽鳥の両親と吉野の代理人として加瀬が全て動くので、ご両親が丸川書店と直接交渉することは無いから心配しないで下さいと言った。 羽鳥の母親は泣きながら何度も「千秋ちゃん、本当にありがとう」と繰り返した。 吉野は母親の泣き声が少し収まった頃、切り出した。 今、一番やりたいことを。 「トリに会わせて下さい」 「千秋ちゃん…」 母親が息を飲むのが、スマホ越しに吉野に伝わってくる。 そして母親はわっとまた泣きだした。 「会わせてあげたい…。 でもね、芳雪の錯乱状態は本当に酷いの。 井坂さん達からも聞いたでしょう? 暴れて自分を傷つけようとするから、拘禁室で拘禁服を着されていてベッドに固定されていて、身体が動かせないとなると舌を噛もうとするからマウスピースを入れられて、食事を取らせようとしても隙あらば舌を噛もうとするから、鼻から栄養点滴の菅を入れるしかなくて…。 指だってあの子にとっては自分の手の平への凶器になるから、手袋までさせられて…。 頭だってそうよ。 ベッドに打ち付けるからヘッドギアをして固定されている…。 それでも芳雪は暴れるのを止めようとしないの…。 私でも見ていられないのよ…千秋ちゃんにはとても無理だわ…。 それに漫画に悪影響を及ぼすかもしれないし…。 千秋ちゃんの漫画に悪影響を及ぼすことだけは、絶対にさせられないわ」 吉野はキッパリと言った。 「トリを暴れないようにしてみせます。 トリに会えない方が、漫画が描けなくなります。 どうかお願いします」 吉野は目の前に羽鳥の母親がいるように、何も無い空間に深々と頭を下げた。 「千秋ちゃん…」 母親はフッと息を吐いた。 「そうね…千秋ちゃんなら芳雪が暴れるのを止められるかも知れない。 芳雪にとって千秋ちゃんは、生まれた時から特別な人なのだから…」 母親は吉野が羽鳥に面会することを承諾してくれた。 ただ、主治医の先生が羽鳥の両親以外を面会謝絶にしているから、断られるかもしれないと付け加えた。 そして吉野が羽鳥に会うのは、三日後に丸川書店で労災について話し合いがある日の翌日になった。 吉野はそれからは誰にも会わず、ただ粛々と家事をやり、きちんと三食食事を取り、風呂に入り、次回のプロットを練っていた。 そうして羽鳥に面会する日がやって来た。 羽鳥の両親と吉野の待ち合わせは、羽鳥の父親の提案で精神医療センターのロビーになった。 三人は時間通り合流すると、受付で入館証を受け取り、羽鳥の主治医に予め指定されていたカンファレンス室に行った。 ドアの前には看護師が一人立っていて、羽鳥の両親と吉野の入館証をそれぞれ確認すると、カンファレンス室の扉を開き「こちらでお待ち下さい。先生を呼んで来ます」と言って立ち去った。 そこは10畳くらいの窓の大きな明るい部屋で、ビジネスタイプの10個の椅子がテーブルを挟んで5個ずつ置かれてあった。 すると直ぐに、背の高い50代前半と思しき白衣を着た男が部屋に入って来た。 「三上先生、よろしくお願いします」 羽鳥の父親が頭を下げる。 吉野も母親に続いて頭を下げた。 『三上先生』と呼ばれた男は微笑んで頷いた。 「まず、どうぞお座り下さい」 『三上先生』は奥の椅子の一番手前に座った。 その前に羽鳥の父親が座り、母親、吉野と座る。 「初めまして。 あなたが吉野千秋さんですね? 私は羽鳥芳雪さんの主治医の三上と申します」 吉野はしっかりと三上の目を見て、「初めまして。吉野千秋と申します」と言って頭を下げた。 三上は吉野達の入館証のように首からバーコード付きのネームプレートを下げ、『精神医療センター 第一部部長 三上要』と書かれたネームプレートを白衣の胸ポケットに留めている。 三上は穏やかな声で言った。 「吉野さん、頭を上げて下さい。 そう堅くならないで。 吉野さんのことは羽鳥さんのご両親に詳しく伺いました。 面会を許可します」 吉野がパッと頭を上げる。 「本当ですか!?」 「ええ、本当です。 吉野さんは羽鳥さんのお母様に伺っていらっしゃるそうですが、羽鳥さんは完璧な拘禁状態です。 それがどんなに凄まじい状態か、ご覧になれば分かるでしょう。 一目見て無理だと思ったら、直ぐに退室して下さい。 私と看護師2名と羽鳥さんのご両親が立ち合います。 それとボールペンなど先が尖った物は、どんな小さな物でも持ち込めません。 クリップでもね。 カッターなど刃が付いている物は論外です。 何か質問はございますか?」 吉野はバッグの中からクリアファイルを取り出すと、テーブルに置いた。 「紙は持って入ってもいいですか?」 「確認させて下さい」 「どうぞ」 吉野が三上に向かってクリアファイルを置くと、三上の手が伸びてクリアファイルを掴む。 三上が中身を取り出す。 三上がほうっと感嘆の息を吐く。 「これは漫画の原稿ですね。 勿論、吉野さんが描かれたものですね? 素晴らしい」 「ありがとうございます。 それは今月号の原稿のコピーです。 羽鳥に見せたいんです」 三上が即答する。 「クリアファイルは無理ですが、原稿を拘禁室に持ち込むのは構いません。 但し、羽鳥さんには見せるだけで、決して渡さないで下さい」 「はい」 「では、行きましょうか」と三上が言い、全員が立ち上がる。 吉野は原稿のコピーをしっかりと胸に抱いた。

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