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第1―10話

羽鳥の居る拘禁室の扉はグリーンで、所々にあるサビで鉄製の物だと分かる。 その扉の横に縦長のかなり大きめのロッカーが3個並んでいて、その前にカーペットが敷かれた3センチ位の高さの台のような物があった。 三上は吉野に向かって言った。 「こちらに羽鳥さんに会うために必要の無い荷物を、全て入れて下さい。 それからベルト、ネクタイ、等のどんな些細な紐状の物も全て取ってロッカーに入れて下さい。 上着も脱いでロッカーに入れて下さい。 それから靴を脱いで、サンダルに履き替えて下さい。 ロッカーの鍵は上着の胸ポケットに入れて、必ずジッパーを閉めて下さい」 「上着と靴…もですか?」 不思議そうに三上を見上げる吉野に、三上がキッパリと言う。 「それは皆さんの衣類を羽鳥さんから守る為に、防御用の強化されたナイロンの上着とズボンを着て頂くからです。 簡単に言えば工場見学で着るような物です。 羽鳥さんがどんな行動を取るかはある程度予測出来ますが、予測外の事が起こるのが精神疾患なのです。 しかも今は、投薬も充分に出来ない状態です。 あなた方の服を引きちぎり紐状にするかもしれない。 ですから念の為に。 それと最後にハッキリ申し上げておきますが、羽鳥さんの身体は汚れています。 清拭は1日に一度行っていますが、羽鳥さんの安全を考えると、完璧に行われているとは言い難い状態です。 例えば排泄も自力で出来ない状態ですから、オムツをなさっています。 そういう事が受け入れられなければ、直ぐに退出なさって下さい。 患者は自分を否定される事を一番嫌うのです」 「分かりました」 吉野は力強く頷いた。 そしてスニーカーを脱ぐと、カーペットの敷かれた台のような物の上に乗り、ロッカーを開けると薄手の上着を脱いでロッカーに吊るす。 ベルトも外してロッカーに入れる。 それからロッカーに用意されていた白いジッパー付きの上着と、ウエストと足首にゴムが入っているズボンを服の上から着ると、スニーカーをロッカーにしまい、カンファレンス室でバッグにしまった原稿用紙のコピーを取り出した。 ロッカーの扉を閉め鍵もかけると、上着の胸ポケットに鍵を入れジッパーを閉める。 そして台から降りるとサンダルを履いた。 ふと見ると羽鳥の両親も着替え終わっていた。 いつの間にか、三上の横に男女の看護師が立っている。 「では入りましょう」 三上の一言で男の看護師が扉に3個着いている鍵をそれぞれ開け、扉を横に引いた。 三上、女の看護師、羽鳥の父親、母親、吉野、男の看護師の順で部屋に入る。 全員が入ったところで男の看護師が鍵をひとつ閉める。 部屋は床も天井も白かった。 窓は無い。 だが吉野は不快な臭いを感じなかった。 ほんの少しだけ、すえたような臭いがするだけだ。 吉野はそんなことより、部屋の中央の床に直接置かれた、事故などでビルの上から落ちて来た人を受け止めるようなブルーのマットに釘付けだった。 いや、その上にいる人間に。 羽鳥は羽鳥の母親が教えてくれた状態だった。 ヘッドギアをされ、マウスピースをされ、拘禁服を着せられ、手袋をしている。 そしてマットにベルトで固定されているというのに、じたばたと…それはマットに固定されているので芋虫のような動きだが、暴れている。 そしてウーウーと獣のように唸っている。 三上が吉野を見て「どうぞ」と言うや否や、吉野は走り出していた。 「トリ!」 吉野は羽鳥の顔の近くに座り込むと、原稿用紙を床に置いた。 羽鳥は焦点の合わない目で、敵でも探す様に目玉をグルグルと動かしている。 そして唸っている。 吉野はヘッドギアで隠されていない羽鳥の頬をそっと両手で包んだ。 「トリ…俺だよ…吉野だよ」 吉野は我慢強く繰り返した。 30分もしただろうか、突然羽鳥のグルグルと回っていた目玉がピタッと止まった。 「トリ…疲れたね…一人で大変だったね。 だから俺も頑張ったよ」 吉野は羽鳥の頬から両手を外すと、原稿用紙を掴み、羽鳥に見せる。 「これ締め切りの1日前に仕上げたんだぜ。 凄いだろう? 締め切りを守ることは当然だってトリはいつも言ってたよな。 でも1日早く上げたんだから、少しくらい褒めてくれよ。 少しでいいから…。 なあトリ…」 吉野の黒い大きな瞳から涙が溢れ出す。 その涙はぽたぽたと羽鳥の頬を濡らす。 羽鳥の瞳の焦点がゆっくり合っていく。 吉野は羽鳥の瞳を見つめ続けていた。 そして。 吉野と羽鳥の視線が合う。 羽鳥の身体の動きが止まる。 羽鳥のは二重の切れ長の瞳を見開くと、ウーウーと唸るのから、何かを必死で伝えるように、モゴモゴと叫びを繰り返し出した。 吉野は叫んだ。 「先生!マウスピースを取って下さい! トリが話したがってます!」 三上が素早く羽鳥と吉野の元にやって来る。 三上と羽鳥の目が合う。 三上は思わず驚いた顔をしてしまった。 この病院に来て以来、羽鳥の目の焦点が合ったのは初めてだったからだ。 羽鳥は三上に訴えるように、三上を見上げ、モゴモゴと叫びを繰り返し続けている。 三上は一呼吸置くと言った。 「羽鳥さんのマウスピースを外す」 看護師がさっとやって来ると、左右に別れて羽鳥の顔の横にしゃがむ。 吉野は看護師の邪魔にならない位置で、原稿用紙を胸に抱いて羽鳥の顔を見つめ続けた。 そして次の瞬間にはマウスピースは外されていた。 羽鳥は舌を噛むことも無く、言った。 「…ちあぎ…よぐ、がんば…たな…あり、がと」 「…トリ…!」 吉野が羽鳥の拘禁服に包まれた胸に飛び込む。 吉川千春の原稿用紙が、色とりどりの花びらように、羽鳥と吉野の上に降り注いだ。

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