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第1―11話
羽鳥は「ちあぎ、げんこ…ちあぎ、げんこ…」と繰り返し言う。
吉野はえへへと羽鳥に笑いかけ、涙を手の平でざっと拭くと、羽鳥の胸から起き上がり、散らばった原稿用紙を拾おうとした。
その時、扉付近にいた羽鳥の母親がすっと前に出て原稿用紙を拾い出した。
「おばさん、ありがとうございます」
という吉野の言葉は、羽鳥の絶叫で断ち切られた。
「うああああッ!!ぎゃああああッ!!」
「お母さん、下がって!
退室して下さい!」
三上の怒鳴り声に、男の看護師が扉に向かって走り、鍵を開ける。
羽鳥の両親が素早く拘禁室から出て行くと、男の看護師がまた扉に鍵をかける。
三上がやさしくゆっくりと羽鳥に言う。
「羽鳥さん、どうなさったんですか?
吉野千秋さんが羽鳥さんに原稿用紙を見てもらいたいと言っていますよ」
羽鳥の絶叫がピタリと止まる。
吉野も羽鳥に視線を合わせ、ニコッと笑った。
涙が一粒、吉野の白い頬を伝う。
「そうだよ、トリ。
トリに会えてはしゃいじゃって、原稿用紙飛ばしちゃったくらいなんだからな!」
羽鳥がうっすらと微笑む。
三上は驚きを『医者の仮面』で上手に隠して穏やかに言う。
「それでね、羽鳥さん。
ひとつ提案があります。
羽鳥さんは会社で倒れてこの病院に運ばれてから、ろくにお風呂にも入れていない。
病気を治す為のお薬も殆ど飲めていません。
お風呂に入ってスッキリして、薬を飲んで落ち着いてから吉野さんの原稿を読んだ方が、リラックスして隅々まで読めると思いませんか?」
「…ちあぎ…」
吉野は羽鳥と目を合わせたまま、「俺も先生に賛成!」とニコニコ笑って言った。
羽鳥がまたうっすらと微笑む。
「…ふろ…はいる…くすり、のむ…」
「トリ…!」
羽鳥が手袋に包まれた指を動かす。
吉野が三上を見ると、三上は頷いた。
吉野がそっと羽鳥の指を掴む。
羽鳥が嬉しそうに言う。
「…ちあぎ…ゆびぎり、げんまん…げんこ、いっしょ、よむ」
吉野はもう限界だった。
溢れる涙をそのままに、うんうんと頷く。
それでも羽鳥に伝わるようにハッキリと言った。
「トリのお風呂と薬を飲むのが終わるの、待ってるから。
一緒に読もうな」
三上に「では吉野さんは先程のカンファレンス室でお待ち下さい」と小声で言われ、吉野は部屋に散らばった原稿用紙を素早く拾うと、「トリ、また後で!」と笑って拘禁室を出て行く。
羽鳥の手袋に包まれた手が、小さく振られる。
羽鳥の身体には、そこしか動かせる箇所が無いからだ。
吉野が拘禁室から出ると、内側から鍵が閉められる音がする。
吉野はそのまま扉の前で、原稿用紙を胸に抱き、しゃがみ込んだ。
声が漏れないように歯を食いしばって嗚咽した。
涙は止まることを知らないように、次々と溢れる。
そっと肩を抱かれて、吉野が顔を上げると着替えを済ませた羽鳥の母親がいた。
羽鳥の母親も泣いている。
「千秋ちゃん、辛かったでしょう。
ごめんなさいね…」
だが吉野はブンブンと首を横に振った。
涙が宙に飛ぶ。
そして吉野は立ち上がると、白い防御服とサンダル姿のまま、羽鳥の母親の手首を掴んで走り出す。
「千秋ちゃん!?」
吉野はカンファレンス室に飛び込むように入った。
先にカンファレンス室にいた羽鳥の父親が、何事かと立ち上がる。
吉野は羽鳥の母親の手首を離すと、ポロポロと泣きながら二人に向かって、しゃくりあげながらも必死に言う。
「俺は辛くて泣いてるんじゃないんです。
違います。
嬉しいんです」
「…え…?」
「トリと意思疎通が出来たから!
トリは今も俺のたった一人の担当編集で幼馴染なんです!」
「…千秋ちゃん!」
次の瞬間、母親が崩れ落ちるように床に座り、号泣しながら「ありがとう、千秋ちゃん」と繰り返す。
父親も男泣きしながら、「千秋ちゃん、ありがとうな」としみじみと言った。
吉野はぐちゃぐちゃの顔で涙を流しながら、ペコリと頭を下げた。
母親がクスッと笑う。
「それにたった一人の恋人だってことも、直ぐに思い出すわ」
「お、おばさん!」
吉野が泣いて真っ赤になった顔を更に赤くする。
父親も笑みを浮かべる。
「母さんの言った通り、千秋ちゃんは生まれた時から芳雪の特別なんだな」
「も、もー!
おじさんまでやめて下さいよお!」
そして三人全員が、涙で濡れて滅茶苦茶の顔を見合わせる。
皆、泣きながらもどこか笑顔だ。
開け放たれた扉に隠れるように立っていた三上は、カンファレンス室に入ろうとして入らなかった。
何十年と精神科医をやって来た三上には解っている。
これから続く羽鳥芳雪とその家族と吉野千秋が歩く道は、崖の縁を歩くようなものだ。
少しでも道を踏み外せば奈落の底に落ちる。
そしてその道は、小さな希望と大きな絶望を繰り返す、ゴールの見えない茨の道だと。
これから吉野千秋に会う、羽鳥芳雪がどういう態度を取るのか。
その態度が羽鳥芳雪の周囲にどんな影響を及ぼすのか。
今の羽鳥の両親と吉野千秋は、想像もしていないだろう。
それでも三上はせめて今だけでも、指の隙間から零れ落ちる砂粒ほどの小さな小さな幸福を、分かち合っている人々の邪魔をすることはどうしても出来なかった。
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