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第1―12話

それから10分程して三上はカンファレンスに入って行った。 羽鳥の両親と吉野は、初めにカンファレンス室に入った位置に座っている。 吉野はまだ着替えていなかった。 三上はきっと羽鳥との出会いで着替える事を忘れているんだな、と思ったが、口には出さなかった。 三上も椅子に座る。 そして静かに話し出した。 「羽鳥さんは今、看護師を2人付けてお風呂に入っていらっしゃいます。 羽鳥さんは大変落ち着いていて、暴れることも看護師に抵抗することも、自分を傷付けることもしていません。 風呂が終われば経口薬を服用してもらい、点滴を三種類打ちます。 吉野さんは点滴が半分程打ち終わった時に、羽鳥さんに会ってもらいます。 それとご両親は今日から1週間は、羽鳥さんと面会しないで下さい。 今の状態を保てるなら、今まで出来なかった投薬などの治療を集中的に行い、羽鳥さんを治療に専念させたいんです。 勿論、保安上の覗き窓から羽鳥さんの姿を見ることは出来ます」 羽鳥の母親は諦めたように「分かりました」と小さく言った。 先程の拘禁室での羽鳥の様子で、思うところがあるのだろう。 「それから吉野さん」 吉野は三上の目を見て「はい」と言った。 「羽鳥さんが経口薬を服用し、点滴をしてくれれば、一見普通の羽鳥さんに戻ったように見えるかもしれません。 経口薬も点滴もかなり強い薬を使用しますので。 ですが、羽鳥さんは発病前の羽鳥芳雪さんではありません。 発病した羽鳥さんには、以前の羽鳥さんとは違う『羽鳥さんの世界』というものが確立されています。 ですから辻褄の合わないことも言うでしょう。 それを全て肯定して下さい。 羽鳥さんの言う事は、現実の羽鳥さんの状況とは違うと思われることばかりだと思います。 ですが決してそれを訂正したり否定したりしないで下さい。 その辻褄の合わない世界こそが、羽鳥さんの今生きている世界なのです。 全てを受け入れてあげて下さい。 それが出来ないのなら、面接は許可出来ません」 「分かりました。 先生の仰る通りにします」 吉野は三上の目を見たまま、力強く答えた。 三上が頷く。 そして三上はタブレットを吉野に向けた。 「それと、もうひとつ、吉野さんに話しておかなければならないことがあります。 羽鳥さんが救急病院からこの精神医療センターに転院されて来てから2日後に、その時点で分かっていることをこの病院で、羽鳥さんのご両親と、丸川書店の井坂さん、朝比奈さん、高野さん、小野寺さんにお話しした内容です」 そう言うと三上はタブレットをタッチした。 吉野は泣くまいと思ったが、三上の話と羽鳥のマンションの部屋の状態を見て泣いてしまった。 それでも三上の話が終わると、ハンカチで涙を拭いて「良く分かりました」と笑顔で言った。 「では、最後に」 三上が吉野をやさしい眼差しで見る。 「羽鳥さんになるべく自然な状態で吉野さんの漫画を読んで頂きたいので、羽鳥さんは点滴をしながら、床に固定された椅子に拘禁されて座ってらっしゃいます。 吉野さんには申し訳ありませんが、万が一の為、吉野さんの椅子はありません。 それと先程も申し上げましたが、羽鳥さんは経口薬も点滴もかなり強い薬を使用しますので、面会途中で眠ってしまう可能性があります。 それとは逆に吉野さんに拒絶反応をみせるかもしれません。 そうなったら吉野さんは眠る羽鳥さんを絶対に起こさず、暴言を吐いたり暴れようとする羽鳥さんからは逃げて、ベッドにあるナースコールを押して下さい。 そして看護師が来たら退室して、本日はお帰り下さい」 「分かりました」 コクリと頷く吉野に、三上が「では行きましょう」と言った。 吉野は防御服を着たままだったので、そのままの姿で最初に入った拘禁室とは違う部屋に案内された。 扉こそ鉄製で部屋の壁や床も白色だが、部屋の中は全く違った。 壁際にシングルベッドがあり、反対側の壁には小さいが柵の着いた窓がある。 部屋の中央には丸いテーブルと椅子がひとつあった。 その椅子に羽鳥は座っていた。 三つの点滴のチューブをひとつに纏めた物を左腕に刺され、両腕、胸周り、胴回り、両足は椅子に固定されている。 「さあ、どうぞ」 三上の声に吉野が入室すると、それまで虚ろだった羽鳥の顔がパッと明るくなる。 「吉野!」 「トリ!」 吉野が羽鳥に駆け寄る。 三上がそっと部屋を出て行く。 吉野の耳に微かに鍵の掛けられる音が届く。 だが、吉野はその全てを遮断して、羽鳥の手袋をしていない右手に左手を重ねる。 「良かった…。 お風呂も入れて薬も飲めたんだね。 点滴も出来て…」 羽鳥がにっこり笑う。 「早く治してお前の家に行ってやらないとな。 またカップラーメンばかり食べてるんだろう。 洗濯や掃除もしなきゃな」 「うん!」 吉野が嬉しそうに頷くと、羽鳥が切れ長の瞳をやさしく細めて言った。 「今月号の原稿を見せてくれるか?」 「分かってるって~。 傑作だから驚くなよ」 吉野は笑ってそう言うと、羽鳥の後ろ側に回り、羽鳥の読むスピードに合わせて、原稿用紙を一枚一枚捲っていった。 羽鳥は最後まで原稿を読み終わると、「良いな。凄く良い。次回が楽しみだな」と満足気に言った。 吉野は羽鳥の前側に回ると、また羽鳥の右手に左手を重ねた。 「少し休憩したら次のプロットを考えるから。 トリ、チェックしてくれる?」 上目遣いで羽鳥の顔を覗き込む吉野に、羽鳥は笑って「当たり前だろう」と答える。 そして「吉野にお願いがあるんだ」と続けた。 「何?」 「明日も見舞いに来てくれないか? 吉野が丸川から初めて出したコミックスを読みたいんだ。 それともプロットが出来てからじゃなきゃ、神様に怒られてしまうか?」 …神様? 吉野は羽鳥の言っている意味が分からなかったが、三上に言われたように疑問は表情にも出さなかったし、口にもしなかった。 ただニコニコと笑って「大丈夫!明日も来るよ」と言った。 羽鳥は心底ホッとした顔をすると、「もうひとつお願いがあるんだ」と言った。 「今度は何だよ~?」 「キスして欲しい」 「はあぁぁ!?」 吉野は一瞬で真っ赤になった。 「唇に…触れるだけでいいんだ。 千秋を感じたい」 羽鳥はうっすらと瞳に涙を浮べている。 「トリ…」 吉野は白い小さな両手で、羽鳥の頬を包んだ。 「…いいよ。 その代わり目をつぶってろよ」 「これでいいか?」 羽鳥が瞼を閉じる。 吉野は一瞬唇を合わせた。 吉野が瞳を開けると、羽鳥はまだ瞼を閉じていた。 微かに寝息が聞こえる。 吉野はもう一度、羽鳥の唇にキスを落とすと、ベッドに向かいナースコールを押した。 それから直ぐに、男の看護師が2人と女の看護師が1人やって来た。 最後に三上が部屋に入ると「吉野さん、今日はお帰り下さい」と言った。 「トリと明日も面会に来る約束をしたんですけど…」 吉野がモジモジと言うと、三上は微笑んで「構いませんよ」と答えた。 吉野は「ありがとうございます!」と言って三上に頭を下げると、素早く部屋から出て行った。 その夜、羽鳥は栄養補助剤のドリンクをマグカップに二杯飲んで三上や看護師を喜ばせた。 本当は固形物を食べた方が体力が戻るのは早いが、羽鳥は自殺を図ったあの日から11日間も固形物を食べていない。 まずは栄養補助剤で胃を慣らす為だ。 羽鳥は食後の薬を飲み、新しい点滴を右腕に打たれながら、左腕に注射を打たれていた。 睡眠導入剤だ。 羽鳥は注射を打つ三上を見上げながら「神様は怒らなかった」と言った。 「何をですか?」 三上が穏やかに訊く。 「千秋はあれほどの漫画の才能を授かる程、神様に愛されているんです。 神様に漫画の才能のギフトを授かる程愛されているんです。 神様に愛されているから、俺なんかが病気になっても、吉野が見舞いに来ると願ったら神様は見舞いを許してくれた。 俺なんてそこいらにいる、いくらでも代わりのきくのただの編集者なのに。 それに恥ずかしがり屋の吉野がキスしてくれました。 吉野は我が儘なところもあるけれど、本質はやさしい。 神様にギフトを授かるくらいだから、吉野はきっと天使なんですね。 やさしい…やさしい…天使…」 羽鳥の声が段々と小さくなる。 三上は「そうですね。吉野さんはやさしい方です」と言いながら注射を終える。 三上の頭にゴミ屋敷のようになったリビングと、塵一つ無い寝室とキッチンとダイニングテーブルが過ぎる。 羽鳥が鬱病を進行させながらも、必死に守った『聖域』。 羽鳥がすうすうと寝息を立てる。 羽鳥がこの病院に来て、三上が初めて見た安らかな寝顔。 死にたいほど苦しい中、羽鳥が守り続けた聖域に舞い降りる、吉野千秋という天使。 それを笑う者はいないだろう。 羽鳥の頭の中では、吉野千秋は神様から愛され、漫画の才能のギフトを授かったのは真実なのだから。 三上は患者の妄想に感動している自分に戸惑った。

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