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第1―13話
吉野は翌朝、精神医療センターが開く時間になると、三上に電話をかけた。
昨日は嬉しくて浮かれていて、今日何時に面会に行っていいか訊くのを忘れて帰ってしまったからだ。
三上は「では午後1時に受付においでください。その後は私の研究室にいらして下さい。場所は受付の者に教えるように言っておきます」と言った。
吉野は「分かりました。では後ほど伺います。朝から失礼しました」と言って、三上が電話を切ってから吉野も電話を切った。
吉野はローテーブルに置いてある、たった一冊のコミックスに目をやる。
短編が1本と中編が2本収められている。
丸川書店に移籍して、羽鳥とああでもない、こうでもないと、時には喧嘩をしながら初めて描いた漫画だ。
その短編漫画が評判を呼び、続けて2本中編を描かせて貰った。
そして次には連載が決まった。
他人から見ればトントン拍子に見えるかもしれないが、吉野は羽鳥に今までの漫画の描き方を辛辣にダメ出しされながら、泣きながら描いたものだった。
今日はトリはどんな様子だろう?
少しでも具合が良いといいな。
漫画を読んで楽しんでくれるだろうか?
吉野は羽鳥に思いを馳せながら、少し古びた初版のコミックスをビニール袋に入れ、封筒にも入れるとバッグにしまった。
吉野は面会の約束の時間よりも早めに家を出た。
病院の最寄り駅前のカフェで昼食を済ませようと思ったのだ。
何だかソワソワして自分で作る気になれなかったからだ。
カフェに入ってもやはり食欲は無く、ランチのサンドイッチセットとカフェラテを頼んだが、サンドイッチは半分しか食べられなかった。
ドキドキしながら精神医療センターに着くと、午後1時15分前だったが、一応受付で名前を名乗った。
受付の女性はパソコンを操作すると、「三上先生の患者様にお見舞いの吉野千秋様ですね。右手正面にありますエレベーターで2階で降りて、左手に進みますと、右手に三上先生の研究室があります」と言って入館証を渡してくれた。
吉野は首から入館証をかけると、『右手正面エレベーター、2階で降りる。左手に進むと右手に研究室』と頭の中で繰り返しながら、まずはエレベーターに向かった。
三上は研究室の前で待っていてくれた。
「吉野さん、こんにちは。
早かったですね」
穏やかに笑う三上に、吉野がぼっと赤くなる。
「す、すみません…。
何だか落ち着かなくて」
「いえいえ、お気持ちは良く分かります。
さあ、どうぞ」
三上がネームプレートをドアにあるバーコードに翳す。
カチリと鍵が開いた音がした。
三上がドアを開け、先に入る。
吉野も続く。
吉野はビックリして、大きな丸い瞳が更に丸くなってしまった。
部屋は本棚に本が溢れていて、書類もあちこちに積み上げられている。
デスクの上はパソコンがやっと置かれているスペースがある状態だ。
そこに4人掛けのソファとテーブルが置かれている。
三上は気にする様子も無く、さっさとソファに座ると、「吉野さんもどうぞ座って下さい」と言う。
吉野は「失礼します」と小声で言って三上の前に座った。
三上は「診察室はまだマシなんですけどね。患者の方とその保護者以外は入室出来ないのです」と苦笑すると、前置きも無く言った。
「羽鳥さんは大変良い状態です。
口径薬も服用されていますし、点滴も嫌がりません。
多少気に入らない事がありますと、暴れることもありますが、女性の看護師でも押さえられる程度で、言い聞かせれば直ぐに大人しくなってくれます。
食事代わりの栄養補助剤も、きちんと三食口から飲んでくれてます」
「そうですか!」
吉野の黒い瞳が、窓から差し込む日差しを浴びてキラキラと光る。
「それで今日は、羽鳥さんから何かリクエストはありましたか?」
吉野は元気良く「はい!」と答えるとバッグから封筒を取り出した。
その中からビニール袋に包まれたコミックスを取り出す。
「この漫画は、俺が丸川書店に移ってから初めて出したコミックスなんです。
俺の担当編集はそれからずっと羽鳥です。
昨日、トリが見たいと言ったので持ってきました」
三上が微笑む。
「貴重品ですね」
「はあ…まあ…一応初版を持って来ました」
吉野の白い頬が赤く染まる。
「病室に持ち込まれてもいいですよ」
「本当ですか?」
吉野が思わずコミックスを掴む。
「本当です。
但し、帯と表紙は本から外して、一枚ずつ見せてあげて下さい」
「わ、分かりました!」
「羽鳥さんは今、昨日と同じ病室で、昨日と同じ状態です。
吉野さんも昨日の注意点を必ず守って下さい」
「はい!」
そして二人は立ち上がった。
昨日の病室の前にも、拘禁室と同じロッカーがあった。
吉野は手早く着替えると、コミックスだけを持って、三上が鍵を開けてくれた病室に入った。
「吉野!」
「トリ!」
そこからはもう二人の世界だ。
吉野は羽鳥の左手に右手を重ねる。
「調子良いんだって?
良かったな」
途端に羽鳥が照れくさそうな顔になる。
「この病院のルールさえ守れば、毎日吉野に会えるからな」
「うん!そうだよ!
ほら、コミックスも持って来た!
なーんと初版なんだからな!」
「何で、帯と表紙を外したんだ?」
吉野は三上の研究室で考えていた言い訳を、スラスラと口にする。
「帯と表紙もじっくり見てもらいたいからさ。
…ダメ?」
羽鳥が笑顔になる。
「そうだな。
お前にしては気が利くじゃないか」
「俺はいつも気が利く男なの!」
吉野はプーッと膨れると、羽鳥の椅子の後ろに周り、まずは帯を手にした。
今日も面会は上手く言った。
ただ、別れ際にまた羽鳥にキスを強請られて、吉野がキスをすると昨日と同じく羽鳥は眠ってしまった。
吉野は昨日と同じくベッドに向かい、ナースコールを押した。
それからやはり昨日と同じく直ぐに、男の看護師が2人と女の看護師が1人やって来た。
最後に三上が部屋に入ると「吉野さん、今日はお帰り下さい」と言った。
「トリと明日も面会に来る約束をしたんですけど…」
吉野がまたモジモジと言うと、三上は微笑んで「そうだと思っていましたよ。明日の面会も今日と同じ手順でお願いします」と答えた。
吉野が「ありがとうございます!」と言って三上に頭を下げると、三上がメモを吉野に差し出した。
「これは?」
「私の病院用のスマホのLINEのIDです。
どんな些細なことでも聞きたいことがあればトークして下さい」
吉野はまた「ありがとうございます!」と言って床に付くくらい頭を下げると、素早く部屋から出て行った。
それから三日間、同じ日々が過ぎた。
羽鳥はどうやらコミックスを発売順に読みたいらしく、吉野は毎日発売順のコミックスの初版を持って面会に行った。
羽鳥は1日ごとに、言葉も態度もしっかりしてきた。
吉野も慣れない家事を毎日頑張った。
あんなに面倒くさかったお米も炊いて、おかずはスーパーの惣菜だが、きちんと三食食べて、毎日風呂にも入った。
そして面会から三日目に帰ってきた時、そろそろプロットを立てようかなと思った。
羽鳥が元気になって来て、自分も頑張ろうと思える。
それに羽鳥と会えるようになって、どんどんアイデアが浮かぶ。
ただ徹夜なんかをして面会時間に遅れることは絶対に出来ないから、軽く物語の流れを書いて、先月OKを貰ったキャラ表を羽鳥に見せようと考えた。
羽鳥が入院してから、プロットを見せるのは初めてだ。
トリは何て言ってくれるだろう?
吉野はうきうきしながらシャーペンを走らせた。
そして翌日、三上の研究室で吉野が、「今日はコミックスじゃなく、これを見せたいんですけど」とバッグからクリアファイルを取り出すと、三上は「確認させて頂きます」と言ってクリアファイルからプロットを箇条書きしたものと、キャララフを描いた紙を二枚取り出した。
「これは…漫画のあらすじとキャラクターですか?」
「はい。今月号の分です。
トリの意見や感想を聞きたくて」
三上は恥ずかしそうな吉野に、にっこり笑って頷いた。
「この紙だけでしたらいいですよ。
クリアファイルは許可出来ませんが」
「ありがとうございます!」
そして吉野は羽鳥にまずプロットを見せた。
「どうかなあ?
あ、ゆっくり見ろよ」
すると羽鳥の肩が震え出した。
吉野が慌てて羽鳥の前に回る。
羽鳥は静かに涙を流していた。
「トリ…?」
「こんな俺でも吉野の編集担当でいいのか?」
吉野はニコニコと笑って、白く小さな両手で羽鳥の頬を包んだ。
「俺の編集担当はトリだけだよ…。
これからもずっと。
俺が古民家を買って漫画家を辞めるまで」
「…千秋…」
吉野はハンカチのような布類を、病室に持ち込むことを禁じられている為、両手でぱぱっと羽鳥の涙に濡れた頬を拭くと、また羽鳥の後ろ側に回って、羽鳥にプロットの書かれた紙を見せたのだった。
羽鳥の指摘は以前と変わらず鋭くて、吉野はプロットを見せたことを後悔した程だった。
プロットを見せ終わると、吉野はそそくさと「先月OK貰った新キャラのキャララフも持って来たんた。今回のプロットに合ってる?」とプロットの書かれた紙から、キャララフが描かれた紙を羽鳥の目の前に翳した。
羽鳥はじっとキャララフを見ている。
吉野はまたダメ出しかなあ~…と、ビクビクしていると、羽鳥が「細かいところが良く見えない。もっと顔に近付けてくれないか?」と言った。
吉野は羽鳥の顔の前にキャララフを近付けた。
「どう?」
「もうちょっと」
そんなにじっくり見るのかよ…と吉野が落ち込みながら、キャララフの紙をまた羽鳥の顔に近付けた時だった。
羽鳥がキャララフが書かれた紙に噛み付いた。
吉野はビックリしてキャララフを描いた紙を持つ手を、片手だけだが離してしまった。
羽鳥はもぐもぐと紙を噛んでいる。
いや、食べている。
吉野は次の瞬間、理性を取り戻すとベッドに走った。
ナースコールを押して叫ぶ。
「トリが…羽鳥が緊急事態です!
早く!早く来て!」
そして30秒もかからず、鉄の扉は開いたのだった。
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