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第1―15話
吉野が電話をした相手は直ぐに出た。
『千秋?どーした?』
「…優!」
吉野は久しぶりに聞く柳瀬の声に、緊張の糸が切れてしまって、泣き出してしまった。
柳瀬は羽鳥と高野にあった出来事を何も知らない。
労働基準監督署の決定が下りるまで、井坂が関係者全員に徹底的に箝口令を引いたのだ。
丸川の関係者で知っている者は井坂、朝比奈、高野、小野寺、桐嶋、横澤、法務部の担当者とその上司、法務部長しかいない。
勿論、主要な役員には井坂が説明したが、秘書に話すことすら禁じた。
つまり役員が動くことになったとしても、役員自らがコピー1枚から取り、その履歴を削除し、資料を揃えるところから行動しなければならない。
羽鳥と高野は第三会議室で『不慮の事故』に遭い、高野は耳に怪我をしたが一泊の入院だけで済み、通院はしているが今現在は通常通り勤務していて、羽鳥の方は重病で『入院している』と、ただそれだけが社内に公表されている。
柳瀬は何も吉野に訊かず、『直ぐにそっちに行く』とだけ言うと電話を切った。
吉野はリビングの床にうつ伏せになって泣きながら、柳瀬を待った。
30分程すると玄関のドアが開く音がして、「千秋!」と呼び掛けながら柳瀬がリビングに入って来た。
「優…」
小さな呟き。
吉野には顔を上げる気力も残っていなかった。
「馬鹿!どこに寝てんだよ!」
柳瀬は言葉とは裏腹に、やさしく吉野を抱き起こす。
吉野が住む高級マンションは玄関からリビング、キッチン、ダイニング、寝室、資料室に至るまで24時間空調が効いている。
敢えて空調を自動にしていないのは、仕事場とアシスタントの休憩室とウォークインクローゼットと浴室だ。
柳瀬は吉野の身体が冷えていなくてホッとした。
そして吉野をしっかり支えて言った。
「どーせメシ食ってないんだろ。
この近くに旨い弁当屋が出来たの知ってるか?
あったかいうちに食おうぜ」
吉野は小さく「うん」と答えた。
弁当はまだホカホカで美味しかった。
そして吉野のグラスに冷えた緑茶を淹れてくるている柳瀬を見て、吉野はしっかりしなければと思った。
自分が倒れていたんじゃ、羽鳥の役に立てない。
それにこうして電話一本で飛んで来てくれる親友もいる。
ホカホカの弁当を買って。
吉野はぐずぐず泣きながらも、弁当を完食した。
食事が終わると吉野と柳瀬はソファに場所を移した。
吉野の前にはココア、柳瀬の前にはブラックコーヒーが置かれている。
吉野が中々話し出せずにいると、柳瀬がフッと笑った。
「千秋、話せることだけ話せ。
ただ話したいっていうなら、話を聞く。
相談に乗って欲しければ相談にものる。
だけど千秋の話が終わるまでは、俺は何も言わないから」
吉野は泣いて腫れてしまった瞳で、柳瀬のやさしく細められた瞳を見ると、「ありがとう、優」と言って話し出した。
吉野は加瀬から井坂が丸川で箝口令を引いていると聞いていたので、柳瀬の迷惑にならないように、入院している羽鳥の容態だけを最初から全て話した。
勿論「誰にも言わないで」と言う吉野に、柳瀬が「当然だろ」と言った後で。
そして今日の出来事。
「凄く調子が良かったのに…。
どうして突然あんなこと…。
それに『悪魔のサイン』っていうのも分からないし…」
話し終わって、冷えてしまったココアを飲んで吉野がため息をつく。
柳瀬は、吉野が新たに原画からコピーしたキャララフが描かれた紙を、隅から隅まで見ている。
そしてハッとしたように言った。
「羽鳥って新しいキャラクターにOKやダメ出しする時、直接言って来るよな?」
「うん。
喧嘩してる時とかは、メールで『キャララフを見た。キャラクターはOKだ。そのまま描いてくれ。』とか言って来るし、その逆もあるけど…」
「だろ?
つまりあいつはお前のキャララフには、何の文字入れもしないんだよ。
俺も見たことが無い。
でも、ここ!」
柳瀬はローテーブルに紙を置くと、人差し指でトントンと紙を叩く。
紙の右下に、雑に丸で囲まれている『OK』という文字の横に『T』と書かれてあった。
「…なんだろ、これ?
トリの字でも無いし」
首を傾げる吉野に柳瀬がニヤリと笑う。
「高野さんの『T』だよ」
「あっ!でも何で高野さん?」
柳瀬が深いため息をつく。
「あのなあ高野さんはエメラルドの編集長だろ?
いくら羽鳥がこのキャラクターで良いと思っても、最終的には高野さんの承諾がいる。
それとこの紙。
これはコピーされた紙だけど、千秋はたぶんこのキャララフを羽鳥に渡した時、原画を渡してしまったんだ。
キャララフに、原画だからコピーだからって騒ぐ程の事でも無いから、急いでいたとかそんなとこで、千秋も羽鳥も気が付かなかったんだろう。
それで羽鳥はエメラルド編集部に帰ってキャララフをチェックし、自分的にはOKだったから、高野さんに最終チェックをして貰おうとした。
たぶんその時、高野さんは席を外してたんじゃないかな。
そこで羽鳥は、いっつも仕事が詰ってるやつだから、高野さんの未決箱にでも入れておいて自分の仕事に戻る。
それで今度は離席している羽鳥の席にキャララフが戻って来る。
不在の羽鳥に『OK』だと『T』が知らせる文字がボールペンで書かれて。
それでこのキャララフは、高野さんに承諾されたってことだ。
ただ、ひとつ間違いが起こっていた。
それは高野さんがOKを書いた紙は原画だったということ。
でもキャララフのものだしと、問題にもならず、羽鳥はコピーを2枚取り、1枚は編集部に保管して、原画と残り1枚のコピーは千秋に返した。
そして千秋は別に気にするようなことでもないからと、原画の方は原画用のファイルにしまい、コピーの方はコピー用のファイルにしまった。
そして今日、そのコピーを病院に持って行った。
そんなとこじゃねーの?」
「優、凄い!
そうだ…あのキャララフを描いた時期は忙しくて、そんなことに」
吉野はそこまで言って、黙った。
『忙しくて』
そう、あの頃にはもう羽鳥は病気だったのだ。
止まっていた涙がまた溢れる。
柳瀬が吉野の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「泣いてる場合じゃねーぞ、千秋。
つまり今の羽鳥は高野さんを『悪魔』だって思ってるってことだ。
これって羽鳥が高野さんを嫌ってるとかっつーレベルじゃないよな?
なんたって『悪魔のサイン』を『天使の千秋』に見せない為に紙を食っちまうくらいなんだから。
あの羽鳥が、誇らしげに笑顔まで見せてさ。
ここは素人の意見として聞き流して欲しいんだけど、俺には高野さんに対する凄まじい憎悪と嫌悪感を感じるな」
吉野はヒクヒクと泣いていた。
それは自分も同じだからだ。
今まで目を逸らしていたけれど、高野が憎いのは吉野も同じだ。
けれど産まれてから一度も人を憎んだことのない吉野は、怖くて認められなかったのだ。
でも羽鳥が吉野の為に紙まで食べてしまって、やっと認められた。
自分は高野さんを憎んでる…
あんなに優秀で、自分を産まれた時から愛してくれている、世界で一番大切な愛する人を、変えてしまった高野を。
すると、コトンと目の前のローテーブルに湯気の立つマグカップが置かれた。
吉野が顔を上げると、柳瀬が綺麗な顔に笑みを浮かべていた。
柳瀬の前ににも湯気の立つマグカップが置かれている。
淹れ直して来てくれたんだろう。
吉野は泣きながらえへへと笑った。
「さんきゅ、優」
「どーいたしまして。
今度はあったかいうちに飲めよ。
あとホットタオル作ってきた。
アロマオイル入りだから、泣いてボロボロのお肌にも少しはいいだろ」
「…優…」
「いーからホットタオル使ってココア飲めって。
まだ話しは終わってないからな」
吉野は柳瀬の言葉に、素早くティッシュで涙を拭くと温かいホットタオルを顔に乗せた。
肌に良いのは勿論、アロマオイルの香りが、泣きすぎてズキズキする頭までほぐしてくれる。
そしてホットタオルが冷たくなると、顔から外し、ココアを飲んだ。
ココアも丁度良い温度になっていて、吉野はココアを一気飲みしてしまった。
柳瀬がクスクス笑っている。
柳瀬もコーヒーを一口飲むと、静かに言った。
「なあ、千秋。
何で『悪魔のサイン』なんだろうな?」
「…へ?
それは高野さんが書いたサインだからだろ?」
「それなら普通に『高野のサイン』って言った方が分かりやすくないか?」
「それはそうだけど…。
今のトリは以前のトリとは違う『トリの世界』っていうものが確立されているって先生も言ってただろ?
だからじゃないのかな?」
柳瀬はつり目気味の綺麗なアーモンド形の瞳を磨き抜かれたガラス玉のように澄ませて、吉野をじっと見つめている。
吉野は何故か以前資料で見た、ギリシア神話の正義の女神テミスを思い出していた。
剣と天秤を持つ正義の女神が柳瀬に重なる。
「三上先生も当然気付いてると思う。
その『羽鳥の世界』が一番危険なんだよ」
吉野は何も言えず、ただ柳瀬の顔をまじまじと見つめていた。
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