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第1―16話

何も言えない吉野に柳瀬がやさしく言う。 「何か飲むか?」 吉野はブルブルと震えるように首を横に振る。 「そっか。 じゃあ俺の意見…つか推測だな。 それを話しとく。 これからの羽鳥にとって、何かの役に立つかもしれねーから。 千秋は三上先生に、『悪魔のサイン』がどうしても分からない、分からなければこれから羽鳥に読ませられる物を選別出来ないから、チーフアシスタントをしている親友に相談したいって頼んでくれ。 俺が千秋と羽鳥とは中1の時からの付き合いだって、忘れずに付け加えろよ」 「分かった」 柳瀬は淡々と話し出した。 「今の羽鳥の価値観ってキリスト教に偏ってないか? 別に羽鳥がキリスト教に入信する程信じてるとかじゃなくて。 全体のイメージがさ。 千秋が神様から漫画の才能のギフトを授かったっていうのは、まあ、天才に対して良く言われる言葉だからいいとしても、だからって千秋が神様に愛されてるからギフトを貰うっていうのは逆じゃねーか? それに俺は『神様のギフト』って聞いても、『才能は神様からのプレゼント』くらいにしか思ったことなかったけど」 吉野も「そうだよな…俺もそれくらいしか思ったこと無かった…」と小声で言う。 柳瀬は頷くと続ける。 「それに、羽鳥の言ってる千秋の漫画の才能は、まず千秋が神様に深く愛されているから神様がギフトを授けてくれたことになってる。 それに羽鳥の見舞いに行く事まで、神様に千秋が愛されているから、許可してくれたって言ってる。 やっぱおかしいよな? それと自己評価が異常に低い。 元々、あいつはポーカーフェイスが上手いから、仕事仲間には気付かれないけど、ネガティブだし、臆病なところもある。 まあ、主に千秋関係だけどな」 そう言って柳瀬が不意打ちにウィンクしてきて、吉野はこんな話しをしている時だというのに、パッと頬が赤くなった。 赤くなった吉野に満足したのか、柳瀬はまた真面目な顔に戻る。 「『おれなんか』、『俺なんてそこいらにいる、いくらでも代わりのきくのただの編集者』。 千秋と羽鳥の付き合いが上手くいくようになってから、あいつ恋人としてだけじゃなくて、千秋の仕事のパートナーとしてプライド持ってきてたよな? それがなんで神様が許してくれて、やっと『俺なんか』の見舞いに千秋が来てくれるんだよ? それと何でかは俺は知らねーけど、羽鳥は高野さんに憎悪と嫌悪感を持っている。 でもだからって何で高野さんの書いたものが『悪魔のサイン』なんだ? いくら憎い相手でも30近い男が、『悪魔』って表現するか? これもキリスト教のイメージだよな。 まあ羽鳥が入院してまだ2週間くらいだし、マトモな治療も千秋に会ってから始められたから、まだ精神錯乱が酷くて妄想が強いだけかもしれないけど、ちょっと気になった。 また羽鳥が危険な行動を起こしたりしたら、それって羽鳥が作りあげたキリスト教のイメージが元になってるのかなって。 千秋もそこら辺に気を付けて羽鳥と話すようにして、羽鳥の言動でキリスト教っぽいところがあったら、どんな小さな事でも先生に報告した方が良いと思う」 「うん!分かった! 優、ありがとう!」 吉野は目の前で微笑んでいる柳瀬が、やはりギリシア神話の正義の女神テミスみたいだと思った。 普段はお互い嫌い合ってて、お互い態度にも出していて、最低限の仕事の話ししかしない羽鳥と柳瀬だが、柳瀬はひとたび羽鳥が病気になったと聞けば、偏った意見を言ったりしない。 天秤は常に公平で水平を保ち、剣の力で真実を見いだそうとする。 頼もしい親友。 吉野も微笑んで柳瀬の『美人』な顔を見つめていると、柳瀬はちょっと頬を赤くして突然立ち上がった。 「明日も羽鳥の所に行くんだろ? 風呂入ってもう寝ろ」 そしてスタスタと歩いて給湯ボタンを押す。 それからソファに置かれたバッグを担ぐと、玄関に向う。 そんな柳瀬の後を吉野は追った。 「優! もう帰んの?」 「帰んの。 今、分かってることから推測出来るのはこれだけだからな。 なあ、千秋」 靴を履いた柳瀬がクルリと振り返る。 「今日は電話くれてありがとな」 「えっ…」 「千秋。 千秋が一人で今の羽鳥をかかえ込むのは無理だ。 そんな時は俺に連絡しろ。 仕事中でも関係ない。 お前が羽鳥の為に頑張れる手伝いを俺も出来るなら、俺は嬉しいんだよ」 「…ゆ、う…」 吉野のタレ目気味の大きな黒い瞳から、涙がポロポロと零れる。 千秋… 世間知らずで 漫画を描くことしか知らない千秋 その千秋が丸川書店なんて大企業と渡り合い、『精神錯乱』と言えばまだ聞こえはいいが『気が違った』羽鳥の面倒を見る いつか破綻するのは目に見えている だから俺もつき合うよ 千秋がやり遂げたと思える日まで 「な、なに?」 じっと吉野を見ている柳瀬に、吉野は恥ずかしそうにシャツの袖で顔を拭く。 柳瀬はクスッと笑うと、 「三上先生に、俺の事話すの忘れんなよ。 この泣き虫!」 と言うと、吉野にデコピンして、さっさと玄関から出て行った。

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