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第1―19話
吉野は割れてしまったカップの破片を見つめていた。
午後の日差しを浴びて美しく煌めく破片。
ただのティーカップの壊れた欠片。
だけど。
久々に。
本当に久しぶりに、こんなに美しい物に出逢えたと思ったら涙が溢れた。
三上は黙って少しだけ残っていた紅茶がテーブルに流れた跡をティッシュで拭いていく。
壊れたカップも破片はそのままに。
吉野はそれでもまだ破片を見つめて、涙を零していた。
「俺を…天使だとトリが思い込むから、トリの具合が悪いんですか?」
吉野の小さな囁くような声に、三上が静かに毅然と答える。
「いいえ、違います。
ただ『羽鳥さんの世界』の中心は今も昔もあなたで、羽鳥さんは救いを愛するあなたに求めた。
ただ、あなたと会うことは仕事のせいで叶わない。
だから羽鳥さんはこれ以上自分が壊れてしまわないように、あなたを中心とした妄想を作りあげた。
その世界ではあなたは神様の恩寵を受け、漫画の才能のギフトを受けた天使のような存在。
そして自分が天使のあなたに会えないのは、天使が忙しく神様からの許可が下りないからだと。
神様は絶対に天使の吉野さんの仕事ぶりをつぶさに見ている筈だから、それを補助する自分も見ていて、仕事を頑張ればいつか必ず神様の許可が出てあなたに会える、そう思えば理不尽な仕事もやり遂げられる。
という思考です」
吉野は何も言えなかった。
ただ、ただ、涙が頬を伝う。
あんなに現実的なトリがそんな妄想に取り憑かれ、思考まで確立していたなんて…。
それ程、トリは辛かったんだ。
仕事に追い詰められ、鬱病を発症し、誰にも言えず、部屋をゴミ屋敷にして一人孤独に病状を深めて行ったトリ…。
そして、高野に着火され、爆発した。
自分のせいじゃないと言われても、トリが自分に救いを求めていると知らされて罪悪感を持つなと言うほうが無理だ。
トリ…ごめん…ごめんな…
吉野が嗚咽していると、三上から冷静な声が飛んだ。
「吉野さん、今私の話を聞いて違和感を感じませんでしたか?」
「…え?」
吉野は涙に濡れ、まるで磨き抜かれた黒曜石の瞳を三上に向ける。
三上は平然と吉野の視線を受け止める。
「私は今、羽鳥さんは自分が天使のあなたに会えないのは、天使が忙しく神様からの許可が下りないからだと言いました。
おかしくないですか?
あなたが忙しいのは確かでしょう。
けれど羽鳥さんに比べれば遥かにマシだった。
羽鳥さんは痩せ細り心が壊れるくらい忙しかったのだから。
それにあなたのように優秀なアシスタントも、他の漫画家さんからも引っ張りだこの優秀なチーフアシスタントで親友の柳瀬さんもいない。
一方羽鳥さんはたった一人で仕事に立ち向かって遂行していた。
だから羽鳥さんは現実逃避をした。
自分が忙しいことから目を背けた。
だから天使の吉野さんの方が忙しくて、神様からの許可が下りないと考えた。
それなら仕事を頑張る理由にもなる。
現実とは逆転の発想です。
なぜ羽鳥さんがそういう考え方を構築したのか。
それに縋るしか無かったからです。
あなたに対する愛情、そして愛するあなたに求めた救いなのですよ。
そして羽鳥さんは発病した。
それなのにあなたはそんな羽鳥さんの一番近くにいて、尚、病気の羽鳥さんに甘えている。
あなたは無自覚でしょうが、今の羽鳥さんに許されることではありません」
三上の荘厳な声が部屋に響く。
吉野はハンカチで顔を拭くと、三上に向き直った。
「お、俺はトリに甘えていません!」
声は震えてしまったが吉野はキッパリ言った。
三上はフフッと笑った
凄味のある笑顔だった。
「そう、あなたは何も分かっていない。
そうしてあなたが分からないことを、周りは必ず許してくれる。
羽鳥さんのご両親に至っては、あなたを心配し慰める始末だ。
羽鳥さんはあなたにだけ、心を開いている。
あなたのお陰で羽鳥さんは病状も少しは良くなった。
あなたの悲しみは分かります。
けれどあなたより、羽鳥さんの方が何十倍も悲惨な世界に生きているのです。
私はあなたに、羽鳥さんが紙を食べた理由が分かったからといって、何になるって言うんですか?と訊きましたね。
それはキャラクターの描いた紙に原因があると分かっていたから、答えはそれ程時間もかからず、おのずと出ると分かっていたからです。
それなのにあなたは羽鳥さんが紙を食べた当日、柳瀬さんを呼び出し、羽鳥さんの病状を話し、謎解きをして意気揚々と病院にやって来た。
あなたは例え柳瀬さんに羽鳥さんの病状と紙を食べた事を話して謎解きをしたことを羽鳥さんに話しても、羽鳥さんは絶対に怒らない、逆に自分の事を心配してくれたと感謝してくれると確信している。
そして私に対しても。
あなたは天使じゃない。
砂糖菓子で出来た女王陛下だ。
壊れないように大事にされ、誰もがあなたの無自覚で我儘で甘えた言葉や態度を笑って許すという名でひれ伏す。
健康な人間相手なら、それもかわいらしくて楽しい性格の一種でしょう。
でも羽鳥さんは普通じゃない。
あなたは天使でも女王陛下でもないと自覚して、羽鳥さんに接することすら考えていない。
これが甘えでは無くて何でしょうか?」
三上の静かな声が、マシンガンのように吉野の頭の天辺から爪先を貫く。
吉野は「ごめんなさい…ごめんなさい…」と繰り返しながら大粒の涙を零し、三上の顔を見上げて言った。
「俺は漫画を描くしか能が無いんです。
だから教えて下さい。
トリにどうやって接すればいいのか」
吉野が両手をテーブルに付いて頭を下げる。
吉野の左手に欠けたカップの破片が掠める。
切れた指から、赤い赤い血が滴った。
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