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第1―20話

三上はあっという間に吉野の小さな血が滴る白く細い指にティッシュを巻くと、すっと立ち上がり、「行きましょう」と言った。 吉野は訳も分からず立ち上がる。 三上は吉野のティッシュでぐるぐる巻きにされた指をそっと掴むと、研究室の奥に入って行く。 そこには小さなシンクとガス台がひとつに電子レンジがあった。 三上は蛇口を捻ると水で吉野の切れた指の血を洗い流した。 30秒もすると三上は水を止め、新しいティッシュで吉野の手全体と指を丁寧にを拭いた。 そうして傷口に絆創膏をくるっと巻くと、可笑しそうに笑った。 「これで私も女王陛下の家臣ですね」 吉野は何も言えず真っ赤になって俯いた。 三上が吉野の指から自分の指をそっと離す。 「ねえ、吉野さん」 三上のやさしい声が吉野の頭上から降ってくる。 吉野がおずおずと上目遣いで三上を見上げる。 三上は穏やかな顔をして言った。 「あなたは羽鳥さんにとって、この小さな絆創膏でいてくれればいいのです。 羽鳥さんの本格的な治療が始まったのは、ほんの六日前だ。 医者の私でも今は手探り状態なんです。 あなたは余計な詮索などせず、ただ心が壊れてしまった羽鳥さんに寄り添ってあげて下さい。 あなたは羽鳥さんの心に貼られた小さな絆創膏。 それでも羽鳥さんにとっては、どんな薬より効くのです」 「…せ、先生…」 吉野の丸い大きな黒い瞳からポロポロと涙が零れる。 吉野はありがとうございますと言う代りに、泣きながら「ごめんなさい」を繰り返していた。 吉野は帰り際に三上にプロットのコピーを渡した。 理由を話す吉野に、三上はおどけた口ぶりで「羽鳥さんは最高の編集担当ですね」と言うと快く預かってくれた。 吉野は自宅マンションへの帰りの電車に揺られながら、反省していた。 三上の言うことは正しい。 吉野は著作権などの管理も全て羽鳥に任せっきりだったので、羽鳥の病状を主治医の三上や羽鳥の両親に承諾してもらえなければ話してはならないなんて考えもつかなかった。 無論、赤の他人に言いふらしたりするつもりもないし、レギュラーで来てくれているアシスタントの子達にも話すつもりは毛頭無い。 けれど、柳瀬は羽鳥とは違った意味で、大切な親友だ。 だから吉野は柳瀬に羽鳥の病状を話して、『悪魔のサイン』の謎解きをしたことを、良いことをしたとすら思っていた。 そして吉野の日常に羽鳥は勿論、憎まれ口を叩いても結局仕事場の整理から家事までやってくれる柳瀬に今まで散々甘えてきたのだと痛感した。 強くならなければ、と思う。 けれど人間はコンピューターと違って今は0で次の瞬間1にはなれない。 だからひとつひとつ階段を昇ろう。 まずは早寝早起きを続け、三食食事を取り、家事をやり、仕事をスケジュール通りこなす。 普通の人には当たり前過ぎることだけれど、吉野にとっては今まで自分の思い通りに、気ままに、好き勝手に…良く言えば感性の赴くままに過ごしてきたから。 それを羽鳥がフォローし続けてきてくれたから。 それを当然だと思っていたから、より一層頑張らなければ、と思う。 そして吉野は自分の性格が今回のことで、良く分かった。 芯は男っぽいが、その周りを砂糖菓子で何重にも包まれているのだ。 それはリリカルでセンシティブな少女漫画を描く上で武器になる感性かもしれないけれど、今は羽鳥が最優先だ。 今、自分に出来ること。 羽鳥の心に貼る絆創膏になること。 羽鳥に寄り添い続ける為の努力を続けること。 吉野はぐっと電車の手摺りを握る。 吉野は明後日に羽鳥と会えるのを楽しみに、夜の電車の窓に映る自分に誓った。 翌日。 羽鳥は今日1日はベッドに横にならず起きていたいと、朝の診断に現れた三上に訴えた。 三上はテキパキと羽鳥に点滴を打ちながら「理由を聞かせてもらえますか?」と穏やかに訊いた。 羽鳥はいつもの無表情を崩して照れくさそうにしながら答えた。 「今日は吉野は最終案のプロットに合わせてネームという漫画の下書きを描かなければならないので、見舞いに来られないんです。 でも最終案のプロットのコピーを先生に預けて行ってくれたから、俺も抜けや足すところがないか考えたいんです。 でもベッドに横になっていたら読めないので、椅子に座ってプロットのコピーを読みたいんです」 「そうですか」 三上はにっこりと笑うと頷く。 「羽鳥さんがきちんと食事を取り、決まった薬を飲み、点滴や注射を嫌がらないと約束して下さるなら良いですよ」 羽鳥がパッと笑顔になる。 「ありがとうございます! 約束します!」 「では近くで読む為に、助手に手伝わせましょうか?」 「それは大丈夫です。 テーブルにプロット用紙を並べて下されば。 プロットは全て頭に入っていますが、チラッとでも読めるとまた新しいアイデアが浮かんだりするので」 嬉しそうな素振りを隠そうともしない羽鳥に三上は微笑んで 「では看護師にそのように伝えましょう」 と言った。 そして三上は「今日はご両親がお見舞いにいらっしゃいます」と付け加えた。 だが、羽鳥から返事は無く、三上を急かすように見つめている。 きっと羽鳥は吉野のプロットを考えたくてうずうずしているのだろうと、三上は思った。 三上は苦笑して「では看護師に伝えて来ます」と言って男の助手を一人置いて羽鳥の部屋を出て行った。 午後1時15分過ぎ。 羽鳥の病室の扉がノックの音と共に開く。 三上を先頭に羽鳥の両親と女性の看護師一人が続いて入って来る。 羽鳥はゆっくり顔を上げて三上を目に捉えると笑いかけたが、直ぐに下を向いてしまった。 羽鳥を前にした両親は泣きながら、それでも嬉しそうだった。 母親が羽鳥の座る椅子に駆け寄る。 「芳雪…元気そうで良かったわ…! まあ、このテーブルの上は何? 千秋ちゃんの漫画に関するものかしら?」 「おいおい母さん。 芳雪だってそんなに一気に答えられないよ。 少しずつゆっくり話そう」 父親も顔をざっとハンカチで拭きながら、笑って羽鳥の元に辿り着く。 「あら! だってこんなに元気そうだなんて…嬉しくてつい…」 羽鳥の母親は本当に嬉しそうにそう言うと、吉野のプロットを一枚掴んだ。 「芳雪、これじゃ見ずらいんじゃない? 良かったら私が顔の近くに持っていきましょうか?」 ダンッ。 突如この部屋にあってはならない音が響く。 ダンッ。 ダンッ。 ダンッ。 「羽鳥さん、止めなさい!」 三上の鋭い声と異音が響き合う。 三上は看護師に振り返る。 看護師は頷くと病室を出て行く。 三上は信じられなかった。 羽鳥は頭を椅子に打ち付けている。 だが、頭部には打撲を…そう今回のような事例を防ぐ為に、衝撃吸収用のクッションが付けられているのだ。 こんな音を立てられる筈がない。 それでもダンッダンッと音は響き続ける。 三上は羽鳥の頭部を後から固定しようとした。 満身の力を込めて。 すると羽鳥は首を横に振り始めた。 「羽鳥さん! 落ち着いて!」 三上は羽鳥の顎を掴み、額を固定しようとする。 その時、「先生!」と女性の看護師の叫び声がした。 男性の看護師一人と同じく男性の助手が二人病室に駆け込んで来る。 茫然と立ち竦む羽鳥の両親。 母親の手からプロットがひらひらと床に落ちる。 羽鳥の口周りは、いつの間にか血で汚れていた。 そして羽鳥は血に汚れた口から、獣のような咆哮を上げた。 まるで雷のように天井を壁を床をビリビリと震わせる。 三上は『狂気』の雨に打たれているようだ、と思った。 この精神医療センターに送られてきた時の羽鳥は、まだ全ての狂気を露わにしていた訳では無かったのだ。 そして今この部屋に豪雨の如く降り注ぐ『狂気』もまた、羽鳥の全ての狂気では無いということだ。 三上は冷静に看護師や助手に次々と指示を飛ばし、自分も羽鳥に治療を施しながら、この誰しもが魅了される端整な容姿を持った青年の全身から溢れる『狂気』に畏怖してしまいそうな自分に驚いた。 今迄に凶悪な犯罪者の精神鑑定を何度も行ったこともある。 この若さで教授になり医療センターの部長に上り詰めた自負もある。 だが羽鳥の『狂気』はそんな三上を畏怖させそうになるほど、独特な『何か』を含んでいる。 ああ。 何ということだ…! 三上は羽鳥の咆哮を聴きながら、思う。 『いまや、『赤死病』がその姿を現したことは誰にもはっきりみとめられた。』 『そして暗黒と荒廃と『赤死病』とが、あらゆるもののうえにそのほしいままなる勢威をふるうばかりであった。』 あらゆるもののうえに そのほしいままなる勢威を ふるうばかりであった

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