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第1―21話

18時。 吉野のスマホが電話の着信を告げた。 相手は三上で吉野は直ぐに電話に出た。 『吉野さん、突然すみません』 三上の声は冷静だが、疲労を滲ませていた。 「いいえ。俺は大丈夫です! トリに何かありましたか?」 三上は一瞬息を飲むと言った。 『…ええ、羽鳥さんの事です。 大変申し訳無いのですが、これから病院にいらして頂きたいのです』 「トリに何かあったんですね? 直ぐに行きます!」 『申し訳ありません。 お待ちしています』 吉野は三上からの電話が切れると、財布とスマホだけを持って家を飛び出した。 吉野はタクシーを飛ばし精神医療センターに向かった。 受付に着いて入館証をもらい、エレベーターに乗り、3階で降りると三上がエレベーターの前で壁に凭れて立っていた。 吉野は嫌な予感がした。 言葉では説明出来ない、何か。 三上はいつもの三上と違って見えた。 まるで三上はいつもの三上を必死に演じているようだ。 「さあ、行きましょう」 三上が歩き出して、慌てて吉野も後を追う。 三上が歩きながら、済まなそうに口を開いた。 「羽鳥さんはご両親と面会中に容態が急変されました。 このまま羽鳥さんの病室に行って下さい。 今の状態では今迄の治療が全て無駄になります」 「はい」 吉野が力強く答える。 すると着いた病室は、羽鳥が精神医療センターに連れてこられた時に最初に入っていた拘禁室だった。 吉野は手早く着替える。 吉野が三上に向き直ると、三上は既に3個ある鍵穴のひとつに鍵を差し、いつの間にか男女の看護師が二人、三上の横に立っていた。 「では、開きます」 三上は3個の鍵を次々に開けると、鉄の扉を開いた。 部屋の中は吉野が初めての来た時と寸分も違って無かった。 床に直に敷かれたブルーのマットに全身を拘禁されている羽鳥。 吉野は羽鳥に駆け寄った。 羽鳥は拘禁されながらも暴れている。 目玉をぐるぐると忙しなく回して。 口はマウスピースをされて話せない筈なのに、獣のような唸り声が聞こえる。 吉野は白く細い指で、ヘッドギアからほんの少し出ている羽鳥の両頬を包んだ。 「トリ…俺だよ。 吉野だよ。 分かる?トリの千秋だよ」 羽鳥の目が吉野を捉える。 血走った目で、不審そうに。 ウーウーと唸り声が増す。 吉野は小さく深呼吸をすると、照れ臭そうに切り出した。 「トリ。 俺はトリのものでトリは俺のもの。 言い過ぎかな? でもいいよな。 恋人同士なんだから」 言った途端に真っ赤になる吉野に、羽鳥の目が突然嬉しそうに細められる。 「トリ。暴れないって約束して。 ネームが上手くいかなくてさ。 トリと話したいんだ」 すると羽鳥の目の焦点はぴたりと合い、唸り声も止み、固定された頭で頷く仕草を見せた。 「羽鳥さん。 私とも約束をして下さい。 絶対に自分も他人も傷付けないと」 突然三上の声がして吉野が顔を上げると、三上も吉野の反対側で吉野のように羽鳥と視線が合うようにしゃがんでいた。 羽鳥は三上にも頷く仕草を見せる。 三上の威厳のある声が響く。 「羽鳥さんの拘禁を解き、治療と投薬を開始する」 その言葉と同時に、三上と一緒に拘禁室に入った女性の看護師が医療器具が乗せられたワゴンを三上の元に運んで来る。 男性の看護師は元々拘禁室の中にいた助手の男性二人を呼び寄せる。 吉野は精一杯にっこり笑い、「トリ、また後でな!」と言って羽鳥の目がまた嬉しそうに細められるのを見ると、拘禁室を後にした。 羽鳥はまるで今朝三上と会話を交わした穏やかな羽鳥に戻っていた。 三上は羽鳥に必要な治療を施しながら、今度は吉野に畏怖の念を持ちそうになっていた。 いや。 羽鳥に対してとは違い、吉野には畏怖の念を持っていると素直に確信出来る。 両親と面会した時の羽鳥は、羽鳥から発する『狂気』の豪雨を部屋から溢れんばかりに轟かせていた。 もし、羽鳥が快楽殺人者や大量殺人者、連続殺人者ならば、三上は驚きもしなかっただろう。 だが、羽鳥のような品行方正を絵に描いたように生きてきた人間に、それ程までの『狂気』が満ちていることは、想像もしていなかったのだ。 羽鳥は衝撃吸収用のクッションが付けられている椅子に頭を打ち付け、出る筈の無いダンッダンッという音をさせた。 そして拘禁を解く時に分かった事だが、羽鳥は手摺に固定されている腕も動かし、椅子の背に打ち付けていたのだ。 腕を打ち付けると言っても、良くて1~2センチ動かせるくらいだ。 どれほどの力を頭と腕に込めたのか、三上には分からない。 そして最も怖ろしい真実は、羽鳥は頭と肘を打ち付けるタイミングを合わせ、頭と肘の打撃音を揃えていたということだ。 口の周りを血で汚し、獣のような咆哮を上げ、それでも羽鳥は『音を揃えていた』。 その方が効果的に自分の不満を伝えられると計算して。 あれ程の『狂気』に脳を支配されながらも、羽鳥にはその最中に『理性』を使うことが出来る。 そしてその理性は全て吉野千秋に向かっている。 両親の面会中、何が羽鳥の『狂気』を溢れさせたのかまだ分からないが、吉野千秋が来た途端、我を取り戻したことが、それを証明している。 たった二言三言話しただけで。 吉野千秋が羽鳥芳雪にとってどんなに大きな存在なのか。 三上は理解しているつもりでいたが、今や医学博士であり精神医療センターの第一部長であり教授である自分のちっぽけな理解が吹き飛ぶ程、吉野千秋は羽鳥芳雪にとって大きな存在…『全て』なのだと実感した。 1時間程して、羽鳥はストレッチャーに乗せられ、羽鳥の病室に戻された。 これで終わりではない。 また病室でも問題無く吉野と面会出来るように、通常の拘禁を行わなければならない。 鉄の扉が空いて羽鳥を乗せたストレッチャーが出てくると、ロッカーの前に座っていた吉野がぴょこんと立ち上がった。 まだ面会用の服を着たままだ。 三上は吉野の前に立った。 「お待たせしました。 羽鳥さんはいつもの病室に戻られます。 まだそちらの病室でやることがありますので、そちらでお待ちになってはいかがですか?」 吉野の大きな黒いタレ目気味の目が嬉しそうに見開かれ、真っ白な頬がピンク色に染まる。 「はい!」 吉野はまるで子供のように元気に返事をする。 三上はジロジロ見ては失礼だと分かっていたが、吉野を凝視せずにはいられなかった。 この華奢で年齢不詳のような幼さを残す青年。 ラフな格好のせいか、まるで大学生のようだ。 だがこの青年には、三上が想像もした事の無い『力』がある。 獣のように狂いながら計算を巡らせ、『狂気』の豪雨を降らせる羽鳥。 だが、今日の『狂気』は羽鳥の狂気の全部では無いことは、三上には分かっている。 そしてその『狂気』以上の『愛情』を羽鳥は吉野に持っている。 羽鳥は狂気に侵されながらも、吉野に有らん限りの愛情を注いでいる。 そしてその『愛情』は諸刃の剣だ。 羽鳥を落ち着かせられることも出来ば、羽鳥の狂気を爆発させることも出来る。 「先生? あの…何か?」 吉野が漆黒の瞳を上目遣いにして三上を見る。 その姿は三上の庇護欲と保護欲を掻き立てる。 そして同時に三上の背中に悪寒が走る。 「…いえ。さあ病室に移動しましょう」 その時、看護師に「三上先生、羽鳥さんの点滴のことで、よろしいですか?」と呼び掛けられた。 「分かった。直ぐに行く」 三上はそう答えると、吉野に「失礼」と言って、早足で羽鳥の病室に向かう。 心の中で声をかけてくれた看護師に感謝しながら。

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