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Ⅰ-2

「一時間ほどで、湯浴みとご朝食の準備にうかがいます」  靴下とキュロットを履く。シャツの襟を申し訳程度に正し、振り返る。 “主の形をしたもの”は答えない。ふて腐れて眠ったか、体よくあしらわれたことに対してなんらかの報復を考えているのか。  どちらにしろいまは好都合だと、こちらを見もしない相手へ深々と腰を折った。  扉を押し開く手が把手を掴んだとき、ふと扉のむこうから小さな跫音が聞こえた。  今時分、主の部屋に用のある使用人はいないはずである。  息を殺し、扉に張りついた。  耳を押し当てて様子をうかがう。跫音は瞬く間に扉の前へとやってくる。  もしや、賊。  もしくは、なにか火急の問題でも起きたか。  ちらりと振り返り、主がまだ無防備に毛布へ包まったままであることを確認して、リュシアンは壁の飾り剣へ手を伸ばした。  いよいよ扉のすぐ側まで相手の息遣いが近づき、剣の柄を握る手に力を込めたところで、 「おにいさまっ!」  小さく開いた扉の隙間から、甲高い子供の声が居室の天井までを一気に突き抜けた。  扉はゆっくりと開き、にゅ、とリュシアンの腰のあたりに頭が生える。 「ルネ様……?」  くせのない真っ直ぐな金髪を肩口に遊ばせた、年の頃6、7歳、寝間着姿の少年である。  ルネ様、と呼びかけてきたのが予想していた相手でないことに驚いたのか、少年はリュシアンを見上げ、空色の目を大きく瞠った。 「あれぇ? リュシアンがいるぅ」 「おりますが、なぜルネ様がこのようなところに――」  幼い身体には少々重すぎる扉を支えてやり、廊下へ目を転ずると、 「ああっ、ルネ様ぁ。どちらにいらっしゃるのですかぁ」  遠く曲がり角のむこう、玄関ホールへ続く先から間の抜けた男の叫び声が聞こえた。 「ルネさまぁ」  男は少年を探して邸中を走り回っているようである。少年はといえば、すでに居室のなかを目的の人物を探してふらふらと歩いている。 「おにいさま。おにいさまは、どこ?」 「ルネさまー! どちらにおいでですか、ルネさまー!」  部屋のなかと、廊下のむこうと。近くから遠くから、リュシアンの疲弊した頭を耳障りな声が交互に叩く。  すくなくとも少年の尋ね人である“毛布のなかの男”くらいは事態の収拾に協力してくれてもよさそうなものを、こちらはこちらで『我、関せず』とばかりに沈黙を続けている。  そのうち、邸中に響き渡るふたりの声に何事かと顔を出す使用人もちらほら見え始め、業を煮やしたリュシアンは、普段はほとんど荒らげることのない声を廊下にむかって思い切り吐き出した。 「こちらへ来なさい、ユーグ・シルベストル! いま、すぐ!」 「ああルネ様、なぜ旦那様のお部屋などに行かれたのです! 扉が開いているかと思えば寝台からお姿が消えてらっしゃって、もう、ユーグはどれほど恐ろしかったことか!」  栗色の髪の青年に抱きすくめられ、ルネは腕の中でいやいやと身を捩る。 「いたぁい」  愛らしい顔は顰められて、青年を退ける腕は力強いものの、上がる声は笑いを含んでなぜか満足げだ。  結局、少年――ルネは、リュシアンの声を聞きつけて急ぎやってきたユーグ青年へと引き渡された。  主の居室の前である。  おにいさま、と“毛布のなかの男”を呼ぶルネは、事実、この邸の主の実弟であった。ただし、主とは母親を異にしている。  兄の姿が見当たらないことを訝しむルネと、その教育係ユーグ・シルベストルを連れて、リュシアンはホールへとむかった。  どうせ主は顔を出さないだろう。それならせめて人目を避けたかったのだ。  ときおり、すれ違うメイドや掃除夫が3人の姿を認めてその場に膝を折る。  口々に朝の挨拶と小さな主の機嫌をうかがう彼らも、まだ夜が明けきらないうちに廊下を歩いているルネの姿を、心底不思議そうな顔で見送った。 「おにいさまと“とおのり”のおやくそくをしているの」  薄暗いホールを抜け、ルネの自室の前まで差しかかったとき、少年は観念したように言った。 「遠乗り? 今日、これからですか」 「そう。ボクもお馬にのりたいっていったら、お天気がいいときに森へつれてってくれるって、おにいさまおっしゃったの」 「ああ――さようでございましたか」  廊下の明かり取りから空を見る。  黒く夜気に沈んでいた山肌はいつの間にか橙色の朝日に照らされ、霞のように薄い雲が空を筆で刷いたようにうっすら流れはじめていた。  空気もほどほどに冷たい。風は少々強いようだが、かえって今時期の遠乗りにはもってこいだとリュシアンも思う。 「おにいさまはボクとのやくそく、お忘れなのかなぁ」  昨日もねむるまえにお馬の話をしたのにと、人形のように愛らしい幼児がしょんぼり肩を落とす姿は、あまりにも哀れに見える。  少年の教育係兼、従者であるユーグもまた、幼い主の気落ちした姿に心を痛める様子で、 「リュシアン様」  従者として、そして使用人としても経験豊かなリュシアンを、まるで捨てられた仔犬のような目で見つめ、どうにかしてくれ、と訴えてくる。  リュシアンは溜め息を吐いた。  目の前の貴き少年と、その教育係へではない。  溜め息を向ける先は、そう――。 “思惑通り”部屋へと引き返してくるリュシアンを、いまごろ毛布に包まりつつ菓子でも摘まみながら待っているであろう主へ、である。 「……わかりました。ユーグ、ルネ様のお支度を。すぐに北の森へ馬を出しなさい。道中の安全の確保と、あちらの管理人におふたりをお迎えする準備をさせるようにと――それと、ルネ様」 「うん」  顔を上げるルネの、さらりと揺れる髪を撫でる。 「お兄様は、ここのところ少々お疲れなのですよ。ですが心配はいりません。かならず、わたくしがお連れしいたます。旦那様は可愛い弟様とのお約束を、けっしてお忘れにはなりませんから」

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