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Ⅰ-3

 扉を開き、中を覗く。  主は長躯をヘッドボードへ凭せかけ、半身を毛布に包んだまま乾いた菓子を摘まんでいた。  部屋は相変わらず薄暗いままだ。  さらに扉を押し開く。細い光が男の横顔を照らす。  部屋の主は伺いを立てなかったことを咎めるでもなく、代わりに、いやに粘着質な視線をリュシアンへ向けた。 「早かったな。腹が減ったから、ちょうどそこにあった昨夜の残りで朝食を済ませたところだ」  カァン、と暗闇に谺するけたたましい音が鼓膜を突き抜け脳を直接震わせる。  床に落ち、こちらの足元へ滑り込んできたのは、汚れた一枚の銀盤。  寝台から放られたそれが白く濁った光でこちらの目を灼くのを、リュシアンは言い知れぬ不快感をもって見下ろした。  盤の表面にうつった顔はいびつに歪んでいる。もはやそれは本当に自分の顔であるのかもよくわからない。  ただ、少しばかりの安堵もある。  鏡は嫌いだ。鏡にうつる己の顔が。  幾年過ごそうと一向にこの国に馴染まない顔立ちも、逞しくもなく、ただ無為に男たちを引き寄せる体つきも。  すべてが白く濁って、あわよくば割れて粉々に砕け散ってしまわないものかと、曇りひとつなく磨き上げられた鏡の前に立つたび、そう思ってきた。  リュシアンは暗がりへ一歩足を踏み入れる。背後で扉が閉まり、闇は男たちの輪郭を消す。  先程まで気づきもしなかった饐えた匂いが、いまはずいぶんと鼻についた。  カーテンに、絨毯に。至るところに昨夜の痕跡が染み込んで、それはまるで罪深い一夜を忘れるなとこちらを脅してくるようである。  一度部屋を出たからこそ感じる、この異様な気配。  いつの間にか締め切られた窓と、そこに引かれた厚いカーテンが、不自然な蒸し暑さとともに部屋を外界から切り離している。  この部屋はまだ、夜明けを迎えていない。  切り離したのは――――貴方ですか、旦那様」 「なにがだ」  小夜を支配する者は低く答えた。 「ルネ様のお部屋の鍵を開けたのは貴方でしょう」 「さあ。覚えはないが」  主は肩を竦めた――ように見えた。部屋の中央にぼんやりと浮かび上がる灰色の塊が、わずかにこちらを向いたような気配がする。  目を凝らし、リュシアンまた少し距離を詰める。 「今朝方、ルネ様のお部屋の鍵が開いていたそうです」  主は、おや、としらじらしい声を上げる。 「それは問題だ。夜中のうちに賊にでも忍び込まれたら、隣室に控えるひ弱な従者では大切な“伯爵家の嗣子”は守れないだろう」  図体ばかりひょろひょろと長い、あの人の良い教育係では、と。嗤い混じりの声に、リュシアンの脳裏にユーグの困り顔が浮かぶ。  青年はルネの寝室の隣へ居室を構えている。  表向きはルネの護衛も兼ねているが、その風体はペンより重いものは持ったことなどないのだろう、と蔭で言われるほどに頼りない。 「ええ。ですから、ルネ様がお休みの際はあの部屋を施錠するのです。ユーグと、わたくし、そして――貴方以外、誰もあの部屋へ入れないように」  鍵は3つ。鍵の管理者はユーグ、リュシアン、そして邸の主の3人。  一度鍵をかけてしまえば、同じ鍵を使わない限り内からも外からもあの部屋へは入れない。 「そういう鍵を貴方が作らせた――ルネ様のために」  大切な“伯爵家の嗣子”を守るため。  ――“兄”が、“弟”を守るために。 「ルネ様のお話では、今朝方扉はたしかに開いていたそうです。施錠の如何を問わず、扉の隙間からは廊下のむこうが見えたと。これはつまりどういうことでしょう、旦那様」 「大方あの年若い教育係が閉め忘れたというところだろう」 「はたしてそうでしょうか」  栗色の髪がふたたび瞼に浮かぶ。  ルネの教育係に任じて半年。  臆病で、大人の男に触れられることを極端に嫌がるルネに、彼は優しく、ときに家族の兄のように厳しく接してきた。  彼の少年を慈しむ心は、この場にいる誰よりも強い。  おそらく、“兄”である主よりも。 「たしかにあの者は未熟です。従者としても至らぬところも多い。しかし彼は、己の失態によってお仕えする方を危険に晒すほど愚かではない」  彼の過失ではありえない――はっきりとそう答えると、闇の中を揺蕩う愉しげな空気がわずかに揺らいだようだった。 「お前の言いようでは、その愚かなおこないとやらを私がしたというふうに聞こえる」 「違いますか」 「くどい。夜遊びのあとに、行かないで、と袖へ縋る婦人のようだぞ、リュシアン。お前が女である瞬間は私に組み敷かれたときだけで充分だ」  男は自分の言葉に満足するところがあったのか、ふん、と鼻を鳴らした。 “おにいさまはボクとのやくそく、お忘れなのかなぁ”。  記憶のなかの空色の瞳が伏せられる。  胸が痛む。  どうしてはやく気づかなかった。  幼気な少年は、実の兄の手によって一生心に消えない疵を負う寸前であったのに。  他ならぬ、リュシアンのせいで。 「――遠乗りのお約束をされたとか」 「ずいぶんと熱心に頼んでくるから、今度連れて行ってやると約束した」 「昨日もその話をなさったのですね」 「いつ連れて行ってくれるのかと訊くから、よく晴れた日に、と答えただけだ」 「昨夜は、たいそう星が綺麗でした」 「月明かりで貴方のお顔がよく見えますと、頬を染めてお前が囁いたのは覚えているが……さあ、星までは出ていたかどうか。どうした、よほど想い出に残る一夜にでもなったか?」 「予想はできたでしょう。好奇心の強いあの年頃の子供が、心から慕う兄との約束をどれほど心待ちにしていたか。目が覚めて、ひとりで潜ってはいけないと教えられた扉が開いてるのを目の当たりにしたとき、そこにどれだけ善悪を判断する力が残っているのか」  わからないはずがない。幼い頃の主もまた、抑えきれぬ好奇心で幾度となく父である伯爵や、当時父の従者であったリュシアンを困らせてきたのだから。  ルネは一目散にここへ駆けてきたのだろう。  小言を言う教育係の目もなく、ひとりで出歩くことを不審に思う使用人もいない。  あとでどれほど叱られようと、少年にとって兄との“約束”はどんな菓子や玩具より魅力的だったはずだ。 「だからといって私がルネを唆し、あらかじめ扉を開けておいて、朝方あれが部屋を飛び出すように仕向けたということにはならない」 「夜明け前に部屋を出ましたね。わたくしが――眠っている間に」 「お前が快感に溺れ、己の職務も忘れて呑気に気を失っている間に、だ」 「それは認めるということでは?」 「認めない。第一、証拠もない」

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